■休留(いいとよ=フクロウ)
「和名類聚抄によれば、
休留 二音漢語抄云 伊比土利

   人截手足爪棄地則入其家拾取之

休留(原文はともに鳥造をもつ)=【休+鳥】【留+鳥】」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm

■飯豊山(福島県・いいでやま)
「白川郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり。又、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す。古老曰へらく、昔、巻向珠城宮(まきむきのたまきのみや)に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の二十七年戌午年の秋、飢えて人民多く亡せき。故、宇惠々山と云ひき。後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」
「いいで山」はそもそも「いいとよ=フクロウの山」が横訛った地名。

■飯豊青皇女(いいとよ・あお・のひめみこ)
「飯豊皇女または飯豊王女と書かれることも多い。飯豊女王、飯豊王、飯豊郎女、青海皇女、青海郎女、忍海郎女、忍海部女王とも。(読みは、飯豊皇女・飯豊王女・飯豊女王・飯豊王はすべて「いいとよのひめみこ」。飯豊郎女は「いいとよのいらつめ」。飯豊青尊は「いいとよあおのみこと」。青海皇女は「あおみのひめみこ」。青海郎女は「あおみのいらつめ」。忍海郎女は「おしぬみのいらつめ」。忍海部女王は「おしぬみべのひめみこ」と読む)

「いひとよ」とは古語でフクロウのことをいい、古代ギリシアでは知恵の象徴であった。「おしぬみ」は葛城内の地名・忍海で、飯豊王の本拠地。忍海部は、飯豊王の子代(こしろ)の部民(べのたみ)であるが、単なる農民部ではなく漢人(あやひと)をかかえた雑工部(物品製造に携わる職工集団)でもあったらしい。「あをみ」は不詳(あるいは青海郎女の「青海」や飯豊青尊の「青」は福井県大飯郡高浜町内の地名かとも思われる)。 修二会の過去帳拝読で読まれる「青衣の女人(しょうえのにょにん)」や、葛城山の枕詞(木幡、忍坂山等にも掛かる)の「青旗」等、「青」の意味を考える価値はあると考えられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E8%B1%8A%E9%9D%92%E7%9A%87%E5%A5%B3

「飯豊皇女は忍海部女王ともいわれていますから、「いひどよ」のほうがあだ名のようです。宮中で秘かに誰かと関係したことが、フクロウ皇女と呼ばれていた由縁のようです。」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm
6aad540a.jpg



■語源
「いひどゆ」もと「いひどり」
鳥→とゆ→とよ
夜中になく=巫女・斎王のイメージにはふさわしい。
青いフクロウならばかつてブッポウソウと間違えられていたアオバズクのことであろうか?
小型のフクロウであるらしい。
夜を司る女性を指すか?
やや男癖の悪いところも見受けられはする。

■史書の中のフクロウ登場
最も著名なのは武内宿禰と応神天皇の会話
「日本書紀 仁徳紀 元年1月3日
初天皇生日、木菟入于産殿。
初め天皇生れます日に、木菟(つく)産殿に入れり。
「仁徳天皇が生まれた日にみみずく(ふくろう)が産屋(うぶや)に飛び込んできた。」
父の応神天皇は翌日、武内宿禰をよんで「是何瑞也」これは何のしるしかといわれた。宿禰は「吉兆也」と即答したうえで、自分の妻も昨日子産んだとき鷦鷯(みそさざい)が産屋に入ってきたというのです。同時に起きたので不思議なこととして、鳥の名を交換したというものです。つまり、仁徳天皇は「大鷦鷯尊おおさざきのみこと」、宿禰の子は「木菟宿禰つくのすくね」となりました。平群臣の祖先とあります。」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm
しかしこのフクロウは「木菟」と表記してある。この記事は古代史方程式における「神名の交換」であるから政権移動譚を柔らかに表現したものだと言える。つまり武内宿禰は応神以前の王で応神に帰順したことを言っている。嫡子が生まれたことで政権の転覆の可能性は消える。そしてさらなる同盟のために嫡子同士が名前を交換した。

次に乙巳の変前夜の話
皇極天皇二年
 正月 五色の雲出る
 四月二十日 西風吹きアラレが降る
 七~九月 茨田池の水腐り、小虫水を覆い這う
 十月    山背大兄王家滅亡の予言する童話はやる
 十一月   山背大兄王と上宮一家自殺 五色の蓋が空に照り光り不思議な音轟く 幡や蓋は黒き雲に変わった
 三年三月  休留が蘇我蝦夷の別荘に子を産む 奇妙なキノコ(芝草)が見つかる
(乙巳の変直前エピソードこれ以外は別ブログで別記する)

最後が飯豊青皇女の夜這い
「清寧3年秋7月、飯豊皇女が角刺宮(つのさしのみや)において、男とまぐわった。
人に語るには、『女の道を知りました。何も異ったことはないが、もう男と交わりたくない。』
このことは未だよくわからない。」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

フクロウは凶兆・吉兆の両面性を持つ
フクロウは夜徘徊する
フクロウは怨霊の化身
フクロウは霊魂
フクロウは神であり、同時に悪霊を運ぶ鳥
この両面性は上宮王家の神性と罪人性に同じく、非常に両極端な二面で言い伝えられてきた性質に似る。
それはすなわち神と鬼がある時期、裏腹であることと合致する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■怪異観念の変遷
現代人は珍獣などの出現にあっても、すでに驚くことはないが、古代人にはそれらは珍事でると同時に吉兆にもなれば、不吉な予兆ともなった。「怪異」とは現代の観念を表現した便利な言葉であるが、古代にはそのような奇妙な出来事を総称する言葉はなかった。

「その時代の「実証的」な科学(占星術、陰陽五行やキリスト教的宇宙観など)は、時代がさかのぼればさかのぼるほど、国家権力に独占されていた。逆に言えば、古代の国家は、超自然的に見える現象に怯える無知蒙昧な民衆に対し、「正しい」情報を発信し、導くために、説明ツールを独占し、研磨していく義務を課せられていたのである。」

「つまり、怪異の分析は、王権のあり方の研究と密接に関係する。」

記紀成立時代には、このような国家側からの「因果応報」「必然結果」としての「解説」が書きとめられていく。
これらは「うそも方便」であるが、聞き手はひどく納得する時代であった。

ところが中世も鎌倉・室町ころになると、怪異は国家権力の手から解き放たれ、民衆のものとなり、あたかも「パンドラの箱」を開いたかのように、どんどんエスカレートしていった。すなわち怪異は現実の事件の説明であることから、一気に社会全体の迷信へと変化していった。それは逆に言えば古代に高等教育を受けられた貴族以外の人々にも、怪異とは「人為のものである」という暗黙のコモンセンスが広がったことの裏返し現象だったのだ。このときから民間信仰も迷信も宗教も仏教も、みな民衆のレベルにまで腰を下ろし、「いわしの頭も信心から」へと大転換していったのだ。

現代の怪異への民衆の関心は、そのほとんどが「夏のレジャー」のひとつとまでなった。

今年もまたKawakatu百物語を「かわかつワールド」にて再開する。

参考文献 東アジア恠異学会『怪異学の可能性』
おすすめ画像共有サイト感謝→http://kimagure-tankentai.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_7c6d.html
http://photozou.jp/photo/show/161402/10343792

クリッククリクリ!↓

If you feel this article if interesting, please make a ranking click. I ask!
재미있다고 생각하면 클릭 잘! ↓
刚想==有趣单击适当地!↓
↓       ↓          ↓
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・古代史へ


ご注意:すべての記事に「ヤフーブログ専用の見えないIP読み込みタグ」がついています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Kawakatu他のサイトへのリンク
Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php