■上宮記(じょうぐうき・かみつみやのふみ)或書云及び下巻注云
7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。
(かわかつ注 Wiki上宮記のこの一文は、正確には『上宮記』本体の編纂と成立は平安時代が正しいかと思える。※1)

※1→7世紀後半にはすでに存在し、それが多くの記録・解説書に孫引きされたという逸文は正確には平安時代成立した『上宮記』が引用したものである。これを「或書」「一云ふ」などと言い、この部分は『上宮記』とは別に存在した記録?の引用であり、その記録自体は不明で、考察するときには【『上宮記』が引く別伝】と表記すべきであろう。ちなみに大山誠一などは「上宮記下巻注云」などと表記している。ここでも「『上宮記』逸文引用部分」と明記して『上宮記』逸文とははっきりと区別しておきたい。

「かなりの数の逸文が『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に引用・孫引きされて残存する。
(『天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文』所引の「或書」なども?)。
特に『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、『古事記』・『日本書紀』の欠を補う史料として研究上の価値が高い(この系譜は「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で引用されているので、厳密に言えば、『上宮記』が当時存在した別系統の某記に拠った史料である。つまり、某記の継体天皇系譜を『釈日本紀』は孫引きしているということになる)。」
※この部分はWiki解説をそのまま採用する。
追補
「『上宮記』は・・・・・鎌倉後期に卜部兼方(うらべ・かねかた)が著した 『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』の巻一「開題」には、『書紀』を考読(講読)する際に備えるべき書として、『先代旧事本紀』『古事記』・『大倭本紀』『仮名日本紀』とともにあげられている。また、やはり鎌倉末期に橘寺の僧法空が著わした『聖徳太子平氏伝雑勘文』にも「上宮記三巻者、太子御作也」とある。」
大山誠一「『上宮記』の成立」『聖徳太子の真実』2003 平凡社所収

■●「『上宮記一云』は『日本書紀』編纂のための草稿(参考資料)として作られた」(大山)

■「『上宮記』逸文引用部分」が記録する継体天皇系譜
おそらく『日本書紀』はここから継体系譜を作っていると考えられる。
それは『古事記』にはない系譜部分が『日本書紀』にはあって、それが「『上宮記』逸文引用部分」に合致するからである。
このことから、今のところ『上宮記』が引用した書物?記録?の成立はWikiが言うように記紀よりも古い時代にすでにあって、それは少なくとも記紀の8世紀初頭直前の7世紀後半ではなかろうかという「仮説」が導き出され、ほぼ定説化しているわけである。

          出身地                父系出自                母系出自
『古事記』    近淡海国               品太天皇五世孫            記録なし   
『日本書紀』   越前三国               誉田天皇五世孫            振媛=活目天皇七世の孫 
『上宮記』一云  父方・弥乎国高嶋宮        凡牟都和希王・・・若野毛二俣王   布利比弥命(それ以前は省略)
           母方・三国坂井県多加牟久村  ・・・大郎子(意富富等王)・・・乎非
                                王・・・汙斯王・・・乎富等大公王

水谷千秋「「上宮記一云」と記・紀」を参考
●『上宮記』曰、一云=引用文だけが記紀とは違って、初代からすべての系譜が書いてある。布利比弥命(ふりひめ)の系譜も垂仁(いくめいりひこ)からすべて記載がある。
母系先祖の垂仁を、「伊久牟尼利比古大王」と記録。ところが父系の応神(ほむたわけ)は「凡牟都和希王」と「大王」とはしていないし、継体には「大公王」と記載。水谷千秋はこれを、原典の書かれた時代による相違で、『上宮記』引用の原典をそのまま記録したと分析している。おそらく資料に埋もれながら書かれたように見える。

それぞれを読んでみると「ふりひめ」「うしおう」などは記紀とも合致するのだが、「いくむにりひこ」「ほむつわき」と微妙に違うところが見える。特に応神が「ほむつ」であることは気になる。(音の相違ではなく単なる万葉仮名使用法の時代的違いかも知れない)

もっとも記紀でも「ほんだ」と「こんだ」と違っている。「ほ」と「こ」の錯綜は考えられるが、「つ」と「た」はやや困惑する。
それ以外にも万葉仮名の使用法がばらばらで、同じ人物になん通りもの文字があてられる例が多い。やはり原典資料をそのまま書き写していったのだろう・・・?大山誠一は「ほむつ」は別人の名前を誤記したと推測する。

『上宮記』逸文引用文はどうにも、作者の力量不足が否めない気がする。しかし、それだけに逆にいつわりなく、真摯に書き写したととることは充分可能だろう。「上宮記」にはウソ偽りが記紀よりも少ない。

※大王と王の相違であるが、逸文から感じるのは、7世紀ころには応神をそれほど重視していなかった・・・言い換えると応神不在説の根拠ともなりうる。垂仁を大王としたのは三輪王朝こそが大和朝廷の祖神だという解釈があったことも思われる。あくまでも想像でしかない。

■上宮王家の系譜
では聖徳太子一族の系譜を『上宮記』逸文引用文はどう扱っているか?

ここでは特に気になる人名だけあげておくので、あとは原文をあたっていただきたい。

●まず山背大兄であるが、これが「山尻王」「尻大王」となっている。
聖徳太子は「法大王」。
山背が「やましり」おう「しりだいおう」と二度も書かれているということは、少なくとも記紀成立の8世紀より前には、山背=上宮家が入鹿らに暗殺されたために彼等を悪人扱いしていた証拠となるだろう。ということになると、7世紀以前には上宮王家は聖人どころか罪人と認識していたことになるだろう。これは非常に重要な記載である。
9839caf3.jpg



「法大王」は「のりのおおきみ」と読むのだろうからこれは豊聰耳法大王で厩戸、つまり聖徳太子で間違いあるまいが、それが三人の妻を娶り、14人の子どもを持っていたとなっているのだが、名前が記紀と異なる者がある。『古事記』が書くような、もうひとりの妃、菟道貝蛸皇女がいない。

1 『日本書紀』は太子の妃を一切記録しなかった。ただし菟道貝蛸皇女だけは『古事記』記事を採用。
2 ところが「上宮記」下巻注云には妃のすべての名前と出自が正確に記録され、しかも貝蛸皇女など見えない。
3 『古事記』は「上宮記」下巻云を比較的正しく採用したが、刀自古の名前も馬子の名前も伏せた。しかし「上宮記」下巻注云はどちらも記録した。

ということは
1 『古事記』も『日本書紀』も蘇我馬子とその娘の名前を知られたくない。
2 『日本書紀』は刀自古を伏せたいがためにすべての妃を記録しなかった。
3 『日本書紀』は貝蛸皇女だけは『古事記』記述をならって採用した。
4 つまり菟道貝蛸皇女は架空の人物であろう。

記紀ともに蘇我氏の娘である刀自古を知られたくなかったのであろう。
またその母親である物部大刀自の存在も極力隠しており、「物部氏女」とか「太姫」などとうやむや、卑字で表現。
馬子の名前も父蘇我稲目の子と伏せた。
菟道貝蛸という名前は『古事記』に記録がある宇遅(うじ)王、貝蛸王(静貝王とも)という実在の王子から、『古事記』編集者が組み合わせて作られたのではないか?(大山)

『日本書紀』は「上宮記」下巻注云の記録を一切無視してまでも、太子と蘇我氏の血縁や婚姻を消滅したかった。
また山背大兄も蘇我と太子から生まれたことを隠匿した。
菟道貝蛸皇女は事実を隠しきれなかったことを『古事記』が工作するために作り出され、『日本書紀』もそこだけは踏襲した。だからこそ『日本書紀』はわざわざ敏達紀一ヶ所にだけ、この皇女の記事を書き込んだ。ほかの三人は書いていないのに、なぜかこの推古と敏達の娘だけは書き記したのは、あきらかに工作であろう。