4d57d7ff.jpg


ae539a68.jpg


f55a9ce1.jpg


5c302e24.jpg


a6198990.jpg



■吉備に出る弧文石・特殊器台・特殊壷。その中で特殊器台・特殊壷は出雲からも出ていることから、両者につながりのあったことが言われ始めて久しい。ただしまだ弧文石が出雲から出ていないが。

■吉備の弧文はその後奈良盆地に入り弧文板と、表現方法を変化して再登場する。吉備楯築が2世紀、纒向が3世紀後半である。

■これらの吉備から来た模様である弧文は、古墳時代には直弧文として石棺などにも応用される。

■これをもって多くの考古学者が、邪馬台国は出雲→吉備→ヤマトへと変遷する半島~日本海=縄文からの先進地の人々の連合だったとする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■小路田泰直はこれに対して、これまで不明だった『魏志』倭人伝の道程記事に出雲を投馬国に対応させる説を書いている。
「(前略)邪馬台国論争で論争になったのは、北九州の不弥国から邪馬台国にいたるルートである。
・・・・・・・・・しかし私は、既に述べたことであるが、方位を除いて、『魏志倭人伝』の記述に、何ら疑わしいところはないと考えている。多くの研究者は、一つのことを見過ごしているだけなのである。それは魏使が日本海を通った可能性である。投馬国を吉備国ではなく、出雲国と考えれば、たちどころに疑問は氷解する。そこから水行10日で到着するところは丹後半島の付け根のところ(天橋立付近)、そこから大和まで一月かかっても、何の不思議もない・・・・・・丹後半島から由良川を遡り、瀬戸内海(播磨灘)に注ぐ加古川の上流に出るのに越えなくてはならない分水嶺は、僅か海抜九五メートルしかないからである。」(小路田泰直編集『死の機能 前方後円墳とは何か』「箸墓の意味 -崇神天皇紀の読み解き方ー」岩田書院 2009)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小路田説では吉備を通らないことになり、考古学発掘による特殊器台の類似性には合致しなくなる。
出雲からなにも丹後までまた東へ移動する理由が明確でない。
出雲から吉備へは中国山地をひとまたぎするだけであり、そこもまたさほど急峻な山地ではない。

1まず出雲が半島と古くから交流していたことは筆者の分析では間違いなく、ここは縄文時代からの先進地であり、最重要な港であろう。だから出雲半島と今の宍道湖(当時は素尊水道→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51634667.html
)は投馬国候補になりうる。ただし不弥国からの方位は南でなく東。

2吉備と出雲に特殊器台が出る。

3丹後半島から由良川と簡単に言うが、若狭湾の勢力と丹後半島の勢力に同一の文化があった痕跡はあるか?少なくとも古墳時代には、丹後は確かに日本海系方墳文化圏だが、若狭は尾張・海部系のおさめる地域。これの協力を証明する必要がある。

4さまざまの考古学発掘からの分析では、ヤマトと吉備の三世紀後半までの強い結びつきはまず間違いがなく、それがヤマトの纒向へ終結するのもまず間違いはない。しかし、それが邪馬台国になったかどうかはまだまだ時間がかかり、今はむしろヤマト纒向は崇神天皇の実在を証明する遺跡であることしかわからないままだ。




ここは押しどころ

クリッククリクリ!↓

If you feel this article if interesting, please make a ranking click. I ask!
재미있다고 생각하면 클릭 잘! ↓
刚想==有趣单击适当地!↓
↓       ↓          ↓
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・古代史へ


ご注意:すべての記事に「ヤフーブログ専用の見えないIP読み込みタグ」がついています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Kawakatu他のサイトへのリンク
Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php