●白鳥伝説と伊奈利伝承
■『山城国風土記』逸文・伊奈利(伏見稲荷)の社条
「秦氏・中家忌寸(ナカツイエノイミキ)等の遠祖・伊侶具(イログ)は稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいた。ある時、餅を使って的として弓で射たら、餅は白い鳥になって飛び去って山の峰に留まり、その白鳥が化して稲が成り出でたので、これを社名とした。その子孫の代になって、先祖の過ちを悔いて、社の木を根こじに引き抜いて家に植えてこれを祀った。いまその木を植えて根つけば福が授かり、枯れると福はない、という」
イネニナル→イネナリ→イナリ
「穀霊神話」
 「験(シルシ)の杉」「白鳥伝説」「的矢伝説」

■『豊後国風土記』冒頭
「景行天皇の頃、豊国の長として派遣された菟名手(ウナテ)が豊前国・中臣村に宿ったとき、翌日の明け方多くの白い鳥が飛来して村に舞い降り、見ている間に餅となり、更に数千株の芋草(イモ)となった。その花葉は冬になっても枯れなかった。ウナテは不思議なことと思い天皇に報告した。これを聞いた天皇は喜び、ウナテに豊国直(トヨクニのアタイ)の姓(カバネ)を与えた。ここから豊国と呼ぶようになった」

※「ウナテ」という人名・・・「うなて」とは古語で溝のこと。
一概に決め付けられないが、溝=灌漑用水路を名にする古代の登場人物というと継体大王や藤原鎌足に関連する摂津の三島溝咋耳(みしまの・みぞくい・みみ)などがある。「うな」とは首筋を指す言葉であり、その形状(ボンの窪)のやや溝条の部分からくるか。おそらく「うなぎ」の「うな」も線状の形態と色合いが溝に似るためか。
豊前国中臣村というのは、秦氏が多く居住した現・みやこ町、旧豊津町(仲津郡)の、『正倉院文書』「豊前国戸籍」に見える「丁里(ていり)」にあたると見られ、ピンポイントで言えば今の草場地区に該当すると思われる。草場地区に隣接して秦氏丁氏の妻がいたと考えられる呰見(あざみ)地区があって、ここに装飾を持つ方墳である呰見大塚古墳がある。この方墳の真横に「溝」ではないが古代官道(古香春道・宇佐勅使道と考えられる)が存在した。(Kawakatu)→当ブログの呰見大塚古墳見学と丁勝氏記事へhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%D2%EF%B8%AB&sk=1

■『豊後国風土記』速見郡田野の条
「昔、田野の野はよく肥えていて食べ物が有り余るほどだった。農民たちは富み奢り、ある時、餅を的として弓を射たところ餅が白鳥となって飛び去った。その年のうちに農民は死に絶え、水田を耕す人もなくなり田畑は荒れはててしまった」
「朝日長者説話」
「長者説話」

速見(はやみ)郡田野というのは、今は玖珠(くす)郡田野である。
風土記が完成した8世紀ころまでは、ここは速見郡だったとなろうか?
ここに白鳥神社が今も存在する。田野白鳥神社紀行記事へ→ただいま作成中
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ここは山ナビあり。


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この神社の創建は社伝によれば、近江国の著名な武将・浅井(あざい)氏の祖先の荘園が豊後国玖珠・速見両郡にあったため、ここに近江から分祠された。
「朝日長者(あさひ・ちょうじゃ)」とは田野に隣接する古くは湿地帯だった千町無田(せんちょうむた、なしだ)地区があって、ここを広く「阿蘇野(あその・なぜ阿蘇かはわからないが、阿蘇神社などは今のところ見つからない。多氏あるいは阿蘇氏移住あった?)」と呼び、この一帯に伝わる長者伝承で、その内容は上記『豊後国風土記』にある的矢伝承から民衆に言い伝えられてきた説話の主人公である。この地の開発には多く、福岡県の久留米地方からの移住者によるところが大きいが、彼等、今の住民たちとこの秦氏的な長者伝説が直接関わるかどうかは不明。久留米からの移住はおそらく江戸時代前後だっただろうから、それ以前のことか。なんとなれば、ここからすぐそこに見える久住山の硫黄は奈良時代の朝廷への貢物として記録があり、久住の鉱物資源開発は近隣の遺跡が5~6世紀のものであることから、少なくとも河内王朝時代にはここで硫黄の採掘があり、採掘者が入植していて、田野・無田地区が彼等の居住地になっていた可能性は高い。ここにある「音無川」はおそらく農業用に切り開かれた用水路から発したか?しかしながら当時の久住山湧き水には多くの硫黄分が含まれ飲料水や水田・農作物には不向きだったように思える。この説話の「稲魂」への直結は慎重になってしかるべきで、それは伏見稲荷の伝承もまったく同じであろう。「稲」はコメというよりはあくまでも産物ととらえるべきで、ここでは硫黄、伏見では伊勢水銀などのいわゆるリスクの高い鉱物を考えるべきである。つまり毒素を含むような危険な鉱物、産物を代々扱うものたちが地域を越えてひとつのグループを作り、情報を交わしながら拡大繁栄した時代があったことになろうか。その時代はかなり特定可能である。まず弥生から倭五王の2~6世紀に渡る武装時代、次に奈良時代の仏教による銅像ブームがあった飛鳥・天平時代、次に鉄器が大量に必要となった鎌倉~戦国時代である。

※情報・・・なおこの場所には今、日本一の高さを誇り、昨今の賑わい著しい「九州夢大吊橋」が架かっており、白鳥神社はその裏口側に位置する。春秋の観光の名所でもあるので、観光のおりにでも訪れられたし(Kawakatu)。
筆者は九州の装飾古墳が日田・玖珠地域から北上して宇佐・中津地区から豊前豊津あたりまで散見することと、鉱物開発・土木開発・船の民たちのグループ化した移動には、秦造氏部民、多氏、阿蘇氏、海部氏、茨田氏、土師氏、肥君、筑紫国造氏などの大きな関わりがあったと考えている。
上記各伝承の切り取りはhttp://www3.ocn.ne.jp/~tohara/inari-densyou.html
を参考にさせていただいた。

■「うなで」「さけ」関連 福岡県「裂田溝」
■疏水の所在
福岡県筑紫郡那珂川町山田、安徳一帯  
150ha

■所在地域の概要
裂田の溝がある那珂川町は、福岡平野の西側を北流して博多湾に注ぐ、那珂川の上流に位置している。  
那珂川町は福岡市と隣接していることから、福岡市のベッドタウンとしての開発が進み町の大半が住宅地化してきたが、裂田の溝の受益地一帯はかなりの農地が残り、都市近郊地としてはめずらしく、まとまった農地が存在する。

■疏水の概要・特徴
裂田の溝は那珂川町山田の一の井出から取水し、総延長約5kmの人工水路である。約7集落、150ha以上の水田を潤し、水田景観を創出している。この水路は『日本書紀』にその開削に係る記述があり、その記述に関わる遺跡も現存している貴重な遺産である。1200年以上経ってもなお、現役の水路として活躍している世界的に見ても稀有な遺産である。
http://www.inakajin.or.jp/sosui_old/fukuoka/a/651/index.html