秦氏は「渡来人」か?門田誠一・森浩一 2
その1からの続き
森 浩一 吉川弘文館の『日本古代人名辞典』七巻本を基礎演習で調べたことがありますが、渡来系、日本系の分類はともかく、日本の氏族で最も数が多いのは秦氏です。雄族といわれるゆえんですが、ヤマト政権の大臣など要職に就いた人はほとんどいない。といって勢力が小さかったわけではなく、平安遷都は秦氏のテリトリーに都を移したとの見方もできる。秦氏についてはかなりの量の文献があり、古代史では秦氏の見方ができあがっている。考古学は、これをチェックしなくてはいけない。たとえば秦氏の根拠地は嵯峨野とされ、大古墳群はあるが、日本列島で大流行した前方後円墳が造られている。文献で渡来系とされているのに矛盾するわけです。

門田誠一 学生のころから、研究書を読むと判で押したように「渡来系である秦氏は」と書いてありました。しかし渡来系であることを直接示す考古学的資料は、ほとんどない。オンドルの遺構やミニチュアの竈(かまど)が見つかった大津市の穴太(あのう)など近隣の遺跡とくらべると、嵯峨野で朝鮮半島の影響を受けた資料は見あたらない。南天塚古墳で新羅系の印花文(いんかもん)も土器が一点だけ見つかったが、七世紀のもので、これだけで秦氏の族長と結び付けるのは難しい。

森     嵯峨野の蛇塚古墳に日本を代表する巨石を使った横穴式石室がありますが、高句麗も新羅も百済も巨石の横穴式石室は不得意なんです。日本列島に住みついたから本国のしきたりや墓の作り方を意識しないという移住のパターンなのかも知れないが、文献の記載が本当かどうか検討も必要です。新しい例ですが、戦国時代に山口の大内氏は先祖が百済系だと名乗りました。戦国時代、出自を中国や朝鮮半島と唱える人は意外に多い。本当の場合もあるが、いろんな理由でそう唱える人もいる。
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門田    ※大内氏の場合、貿易や政治に有利なように言ったのだと思います。中世だけの問題でなく、秦氏の成り立ちを考える際の参考になる。考古学的に証明できない「渡来系氏族」には政治的な姿勢がかなり入っているのではないか。「秦氏=渡来人」という図式も、とらえ直す必要があると思います。

森      ※秦氏に限らず錦織氏、東漢氏なども渡来系とされていますが、検討が必要でしょう。氏族も本家筋(氏・公など・かわかつ註)、氏人(人・かわかつ註)、周辺の労働に従事した集団(部・かわかつ註)、の三つくらいに分けて考えなくてはいけない。

門田     『日本書紀』神功(皇后)紀に出てくる渡来集団の本拠地は奈良の葛城山東麓で、韓式土器や朝鮮特有の鉄器などがかなりの密度と量で出ており、文献と相互検討できる。秦氏は、そうはいかない。構成も複雑で、下の方の秦人部には渡来系でない人も入っており、単線的な理解を吟味し直す必要があります。陶質土器の破片が出たから秦氏を渡来系とするのは、歴史学の検証として単純すぎます。

森      整理すると、文献資料では秦氏は渡来系で一致している。その本家筋の地域は遺跡がよく残り、資料も多い。しかし、その資料だけでその地域の集団の出自や特徴を証明すると、文献と同じ結論にならない。そこをそろそろ検討課題にすべきでしょう。

門田     ※北部九州では弥生時代、出土遺物の八割が同時期の朝鮮半島と同じ遺跡があります。古墳時代にも伽耶の土器や紡錘車(ぼうすいしゃ・糸を紡ぐ器械)を女の人の墓に入れるなど、渡来した一世が考古学的にわかる。そういうものが嵯峨野の古墳にはほとんどない。 

森       渡来系集団の内部にも、同化の度合いの差があるのではないか。支配層の人は副葬や言葉が早く同化するかも知れない。ところで、お寺やお墓の造り方は時代の影響を受けますが、灌漑のノウハウは受け継がれるのではいかと思います。秦氏が造ったとされる嵯峨野の「葛野の大堰(かどのおおい)」は中国の都江堰(とええん)と構造が似ているんです。

門田     葛野大堰付近の松室遺跡で約二十年前、古墳時代後期の幅十六メートルの人工的流路の遺構が見つかり、人工的な流路を造っていたことがわかりました。秦氏と関係する人たちが土木工事をおこなったことを考古学的に示す例といえます。

中略

森      ※前略・・・若い研究者は勇気をもって既成の大系を揺すってみるとよいですね。それぐらいでぐらつくようでは、大系にあやまりがあるのでしょう。

資料 森浩一『京都学ことはじめ 森浩一12のお勉強』より
(太字表示・かわかつ)

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※門田はこの対談の中で南山城地域の精華町森垣内遺跡の鉄・玉工房の存在に触れて、さらにそこから「大壁造り」という渡来系技術者によるものとされる遺構や、韓式の土器出土についても言及している。
大壁造りとは、主に寒冷地対応型の建築物で、倉庫あるいは小屋、蔵だろうと言われ、溝の上に柱を立て、壁で塗りこめる式の建造物。これは『播磨国風土記』にある「韓室」に当たるかと言っている。
■『播磨国風土記』飾磨郡の条 
韓室の里------「右、韓室といふは、韓室の首宝等が上祖、家大きに富み饒ひて韓室を造りき。かれ、韓室と号く」
おそらく韓室(からむろ)とはオンドル、あるいは製鉄に伴うなんらかの倉であろうか。
http://www3.ocn.ne.jp/~x484kok8/harimahu.html

四条畷などの韓式土器多数発掘地や、製塩土器、馬の歯などの出る地域などともよく似た風習があったと言う。

木津川東岸はコマ地名があり、『古事記』にも「韓人努理能美(からひと・ぬりのみ)が登場する場所である。仁徳天皇の妻(葛城磐之媛)は葛城系だったが、天皇の女性問題で家を出て努理能美の家に隠れる。葛城氏がこのころ、朝鮮問題に介在して、南伽倻滅亡の発端を作ったことと渡来系の木津川居住にはなんらかの関係ありと森は見ている。

継体大王即位の際には、百済系移民の協力があったとも森は言う。
つまり秦氏は長岡・平安の遷都で大いに勢力を拡大したが、百済系移民たちは筒城宮遷都で新興した。継体が綴喜郡に宮を置いたことは、南山城から奈良北部・南郷遺跡にかけて二、三世代前からここにいた百済系渡来工人の技術力が大いに関与したわけだろう。南郷では銀、鉄、ガラスなどの複合工房が出ている。京田辺市の古墳で鍛治道具がでており、さらに地名で「多々羅」という製鉄関連の名前も見える。森垣内遺跡からはフイゴ羽口、鉄滓が見つかってもいる。
南山城からはこれからまだまだ渡来系遺物が発見されることだろう。

※翻って、継体大王が百済と密接であったことは、これに対抗して新羅と結んだ筑紫勢力の磐井が、風土記では豊前に隠遁したとも書かれていることと大いに関係してくるだろう。新羅系秦氏の九州におけるメッカだった遠賀川の東側へ、磐井が逃げたというところに北部九州勢力が一致団結して国家対国家的対立があったのだ・・・つまり地方がまだまだ「別の国家」に匹敵する力を持ちえていた時代が6世紀だったということであろう。
その背後で、渡来系はいくつかの集団があっちにつくかこっちにつくかで大きく列島の流れは変化できる時代だった。それほどに朝廷権力はまだまだ不安定だということになろう。

渡来を渡来とそのまま受け止めるから他人行儀になる。
考古学的に秦氏がすべて渡来だとする確かな証拠は少なく、「渡来ではない人々も」いて、「渡来をステータスにしようとした」集団もいたと考えつけば、もう渡来研究は日本人の考古学・歴史学の一部として確固たる学術部門になっていなければならない。あまりにも日本の学問は遅く、遠慮がちである。若い研究者には怖がらずしっかりと自説に組み入れていってほしいものである。特に豊前地区と近畿の京都地区!彼らにもらった土地に住んでいるのなら、それを無視していては、歴史をやっているとは絶対に言えないのだと肝に銘じてもらいたいものである。腰がひけていてはたから見ていてみっともないったらありゃしない。
「わがところの歴史ぐらいこわごわでなく、まるっと分析しつくさんかいっ」と感じる。



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