9183ce58.png



この妻が呰見大塚古墳のある旧豊津町大字呰見出身と思われる阿射弥勝布施賣である。
この名前、丁も布施も庸調を匂わせるが、丁氏一族がいたから「丁里」という地名になったのか?

もちろん秦氏の一族がすべて「渡来」だとは限らない。古代の氏族は日本国内でも多くの臣民を持っていた。技術者・工人は半島からつれてきただろうが、最新技術を学ぶものの多くが在地の住人だったことも忘れてはならない。

呰見大塚古墳は6世紀後半の古墳なので、奈良時代の戸籍帳にある彼らは同時代人とは言えない。しかし京都(みやこ)郡一帯は仲哀天皇の仮宮があった場所であり、このヤマトタケルの息子である天皇は、九州で亡くなっている。『日本書紀』のいわゆる神功皇后紀の記述であるので、信憑性は薄いかも知れないが、その頃にはすでに秦氏がここ周辺に来ていてもおかしくはない。

要するに豊前中部の加自久也里と、南部の塔里とともに豊前国の大半を開闢していった恩人としての秦人・秦部のことを地元民が何も知らずにいることは、歴史愛好家としては実に寂しいのである。そして結果として宇佐に応神天皇と神功皇后が祭られるのも、やはり彼ら秦氏に関与しただろうという、信仰、文化、技術などのすべてのものが秦一族によってもたらされたことは、ちょうど彼らの本拠地である京都市とまったく同じであることを知る必要がある。

住民が知らない。それには在地官吏と教育の責任がある。それはシビリアン・コントロールだともいえまいか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「正倉院文書」大宝2年(702)残簡戸籍(最古)
■仲津郡丁里(行橋の一部、豊津、犀川に当たる)
秦部  239戸、丁 勝(かつ) 51戸、狭度勝(さわたり・かつ) 45戸、川辺勝 33戸、古溝勝 15戸、大屋勝 10、高屋勝 3戸、阿射彌勝 1戸、黒田勝 1戸、門勝 1戸、田部勝 1戸、物部 4戸、車持部 3戸 、鴨部 3戸、大神部2戸、日奉部 2戸、宗形部 2戸、難波部 2戸、矢作部 1戸、中臣部 1戸 膳臣1戸、津守 1戸、呂部 1戸、建部 1戸、 錦織部 1戸、高桑部 1戸、生部 1戸、春日部 1戸、刑部 1戸、無姓 49戸、不詳 2戸。
■上三毛郡塔里(とうのさと)(唐村のある大平村=今の上毛町東部山国川沿岸地域及び対岸の中津市上ノ原地域)
秦部66戸、塔勝 49戸、強勝 1戸、調勝 1戸、梢勝 1戸、楢勝 1戸、難波部 2戸、海部 1戸、物部 1戸、膳大伴部 1部。
■上三毛郡加自久也里(かしきえのさと?)(築上町あたりか)
秦部 26戸、河部勝 16戸、上屋勝 13戸、膳大伴部 4戸、飛鳥部 4戸、刑部 1戸、膳部 1戸、浴部 1戸、無性 7戸。」
(すべての戸主名から一歳の緑児まですべての家族の全記録付記。完全なる戸籍記録として最古)

面白いと思ったらクリックよろしく!↓

If you feel this article if interesting, please make a ranking click. I ask!
재미있다고 생각하면 클릭 잘! ↓
刚想==有趣单击适当地!↓
↓       ↓          ↓
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・古代史へ
にほんブログ村 科学ブログへ
にほんブログ村 小説ブログ ノンフィクションへ
ご注意:すべての記事に「ヤフーブログ専用の見えないIP読み込みタグ」がついています。