■「甕棺墓の萠芽期に相当し,刻目突帯文以来の甕棺が存在する段階である。すでにほとんどの地域で甕棺墓が分布するが,型式毎に細かくみると刻目突帯文の段階は,そのほとんどが支石墓の内部主体であったり,支石墓に近接しで営まれていることもあって,支石墓の分布と重複するように,西北九州,唐津,糸島,早良,小郡・鳥栖の西部,神埼,佐賀,島原,熊本に偏った分布をとる。規模も5基から10基でさほど大きくない。しかし集落域とは分離されていて縄文的墓地構成とは明らかに異なっている。板付Ⅰ式段階には小郡・鳥栖の東部に,伯玄社式段階になるとようやく福岡・春日,二日市,朝倉,筑後南部へと拡大,墓地の規模も拡大して10基以上群集する例が多くなる。Ⅱ期以降に一般化する弥生的な墓地構成の特徴をすでにみることができるのである。」
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記事と画像の出典先→九州の甕棺-弥生時代甕棺墓の分布とその変還-藤尾 慎一郎
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
絶賛する。

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このように九州の甕棺墓制は九州島から出て行かないばかりでなく、東部には一切動かず、南部の背振山系をすりぬけて吉野ヶ里方面から、筑後川、菊池川を渡って狗奴国があったはずの有明海沿岸(のちの筑後地方)から熊本県中部へと拡散している。この様式の流入経路を朝鮮半島南部金海に求める説が主流であるが、実はこの墓制に先立つ末羅国菜畑の水稲稲作の来訪経路とともに、むしろ西にある五島列島に求める方が筆者には整合ではないかと見えている。

五島列島は「五島隼人」の居住地である。彼らが東シナ海を会稽東冶まで往来していた伝承は、地元の漁師たちには既成の事実であったという報告がある。そして有明海から南へと下る、熊本県海岸線は島原半島に囲まれて、当時はかなりの内陸部にまで割り込んだ海だった。

例えば聖徳太子の時代にも『隋書』は阿蘇山の記事を挿入しているし、空海の時代にはここから遣唐船が発着した可能性が高い(空海は有明海の港に戻り、一年半熊本、大宰府にとどまっている)。有明海岸を那の津とは違うもうひとつの港だったと考えると、筑紫国造が筑前よりも筑後に本拠を置いた理由はなにか?という疑問が解けてくる。筑紫国造家や、その南部にある、熊襲隼人の南九州から来たであろう吉見系草部・・・つまり火君たちこそは狗奴国勢力であって、中国南朝と深く交流していたと考えつくのである。

それは彼らがもともと長江から五島を経由してやってきた長江文明人ではなかったか?との基本的、素朴な疑問にみごとに合致する。

彼らはどこかに消えたのではなく、半島渡来より先に九州にやってきて、先に小国家を作り、先に稲作を開始していたのではないか?それがあとから来たある勢力とは結束できた。それこそが・・・?

さて、神武がなぜ南九州に降臨し、なぜ南九州海人族の娘を嫁にした天孫から生まれ、なぜ高天原伝承が二ヶ所あり、なぜ「ミミツ」の海から「船で」東征するのか?
なぜ途中で遠賀川の崗や、吉備に立ち寄るのか?
また、行った大和にはすでにニギハヤヒというやはり海人系ホアカリ系譜の人がそこにいたのか?
その後、なぜ応神がやってきてまた大和に向かい倭五王となるのか?
なぜ神武が立ち寄った場所が応神以下の王によってやがて滅ぼされねばならなかったのか?
なぜ神八井耳系譜はスエツミミ系譜を消してしまうのか?

なにか一本の線が見えてはこないか?
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