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「双方向への民族移動は、日本人とチベット人、南越人などの血脈に、長江上中流域にあったD遺伝子の同時存在と、それの他地域には見られないという陸封遺伝子であることから見ても、南インドは許容範囲となる。そして、日本の北部九州玄界灘沿岸でも、また半島南岸域でも、その墳墓様式が三世紀には消えてしまうこととまったく矛盾しない。彼らがどこへ消えたかの謎はいまだに解けてはいない。もしそれが記紀が言うように瀬戸内海を東へ移動したというのなら、その墓制は吉備や畿内で継続されているはずである。」
「南インドと極東の甕棺墓」元記事→ http://white.ap.teacup.com/kawakatublog/489.html