「甕棺墓は朝鮮からの墓制で、青銅器時代の始まりと共に盛んになり、後に朝鮮南部地方で支配的な墓制となる。全羅南道羅州郡(ちょるらなんどらじゅぐん)、嶺安郡、咸平郡、光山郡(りょんあん、はむぴょん、ぐぁんさん)などに多く分布している。日本では福岡県、佐賀県など北九州一帯で数多く見られる。
 とくに「金海(キムヘ)式甕棺墓」と呼ばれる墓制は、朝鮮の「コマ型土器」から変化した「甕」を棺として用いたもので、「金海」に代表される朝鮮西南沿岸地方のものが北九州一帯の墓制のモデルとなった。」

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「福岡市飯倉遺跡、板付遺跡には、金海貝塚の甕棺出土のものと同じ様式のものとされる細型銅剣、銅鉾、銅戈などの青銅器が副葬されていた。また、佐賀県唐津市宇木汲田遺跡の甕棺からは多鈕細紋鏡(たちゅうさいもんきょう)が出土している。
 日本の甕棺墓は、構造や埋葬方法が朝鮮のものと同じで、そこに副葬される細形銅剣や多鈕細文鏡をはじめとする青銅器類も朝鮮固有の系譜を引くものである。」

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これらの記事の引用文献  権 仁燮著 朴 鐘鳴監修『朝鮮と日本の関係史 善隣と友好の歴史』明石書店 2000

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まず考えておきたいのは、この在日朝鮮人考古学者の言うところの金海・・・半島西南岸の国・・・つまり魏志に言う「狗邪韓国」だろうが、その狗邪韓国の構成人員自体が朝鮮半島在来人だったかどうかの検証をまずしておらぬこと。
甕棺は南インドからでさえ出てくるのであって、そもそも長江流域河口部から移動した墓制である可能性もあるのであるから、金海沿岸域にいた、おそらく海洋民らしき倭人もまた、そうした移動の経緯があった可能性から追求すべきだろう。
副葬品については地域によって異なることがある遺物である。たまたま玄界灘で対面する半島南岸と北部九州に同じものが存在するのは、双方が同じ人種であることの証明にはなるだろう。
しかし、そのすべてが朝鮮半島オリジナルであったかどうかは今後の発掘が待たれる。まだ水田遺構の古いものも発掘できていない朝鮮考古学には、慎重さを求めたいところだろう。

半島の学者にしても、在日考古学者にしても、日本のヤマト学派を数段上回るほどの自国偏重はいまだに変わっていない。もちろん国家ある限り、そういう傾向は人間にあるのは当然である。そこで朝鮮系歴史本を読む日本人は、そういう愛国心横溢過多の学説の各所は見てみぬ振りをしてやる必要があるようだ。そうでないと、上品にひたかくしている日本国民の、奥ゆかしき、愛国心もつまらぬ高揚をがえんじえない場合もでてくるからだ。

それが大陸人のどうしようもないテンションであろう。

倭人、海人が長江の白水郎起源であるという可能性は消えたわけではないのである。
それが弥生のわが国の水田が、半島よりも古いという考古学的事実に如実に現れている。
そもそも気温の低い、乾燥地帯である半島には、陸稲炭化米やアワ/ヒエしか出ていないのである。稲作が列島から行ったなどと言っているのではない。長江河口などの温暖地で栽培されるべき水稲米が、日本よりも容易に、北方の半島北部などで始まるわけはもとからないのである。という考え方もあるということだ。