関東、関西とはそれぞれの「関」を基準にして東西を言う。
関は関所であるから、京都から見た関東とは、京都の逢坂の関から東のこととなる。ということはお隣の滋賀県から、もう、昔は「関東」だったことになってしまう。
鈴鹿の関、不破の関もある。滋賀県の東のはじっこにある不破関は奈良時代まで、ここから東は関東だったので、そうなると滋賀県は畿内になる。だからこの言葉の範囲は時代によって変わったことになる。
鈴鹿は道の東西を分けておらず、南北をわける位置にあるので、ここでは関与しないのだろう。

ところが関東から見ると、箱根の関の西側は「関西」になる。
これはずっと時代がさがって江戸時代の話だ。

現代は首都が東京だから、一般的に江戸時代の江戸から見た関観念と同じで、箱根の西が関西である。

というと、「いったいおれたちはどっちだ?」という存在になってしまうのが中部地方だろう。いったい名古屋は関西なのか、関東なのか?
奈良時代から前には、東国(あづまのくに)とは不破の関より東であるから、愛知県や岐阜県は当然東国=関東である。しかし江戸時代だと箱根の西にあるから関西になる。
東国と言ったときは愛知も岐阜も含まれるが、今、関東、関西と言うときには中部地方はそのどちらでもなく「中部」である。

今でも京都の人は、関東人をさして「あづまえびす」「むさしあたりのえみし」「ひな」とうちうちで言う事がある。
この言葉には、あきらかに蝦夷のいるバンコクという差別的な意味が含まれることになる。
食べ物の味覚・・・アマからの味付けや、すきやきやカレーを豚肉で作ったのを好む風習に蝦夷を見ていることになる。
これは一例であるが、昭和天皇崩御のとき、東京から相当数の警備が京都にやってきた。それを見て、今日の大学教授はこう言っている。

「なんやら京都市内にはあすまえびすがぎょうさんきよってなあ・・・」(「もうひとつの古典文学史」より)

と、まあ、こんな具合である。

こういう、うちうちで言う、京都人の性格を関西では「いけず」と呼ぶ。
では関東人と同じくらい、いやそれ以上かも知れず野蛮なところがあると見えていたはずの四国や九州人はどう呼ばれたのだろう?よくわからない。また畿内よりも西の世界を、こしゃくなこやつらはなんと読んでいたのだろうか?
呼称は地域によってあまたあり、「あづまびと」「えみし」などと一括した呼び方はないようである。
それは歴史のつきあいの長さの違いだろう。

さて、往古の尾張の女性、関東の女性のイメージについて浅見和彦がいろいろと調べているので、次回から古代ではないが、中世あたりの彼ら、彼女らの逸話をすこし書いておきたい。
愛知から東の人は怒らぬように。かなり手厳しいようである。しかしけっこう笑える。できれば昔の住人のことだと笑い飛ばしていただきたい。今もそうだったら、できる範囲で反省もお願いしたい。

こうご期待。

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