■縄文時代
  ●貝塚・・・牛窓町黒島貝塚・黄島貝塚  
どちらも縄文時代には瀬戸内海に浮かぶ小島で、当時は縄文海進によって陸地と切り離されていた。今は地続き。つまり縄文海進が実際に起こったという証明の土地が牛窓である。下層部はヤマトシジミを主とする貝塚。つまり縄文時代の早い時代には瀬戸内は淡水、ないしは汽水域だったことになる。それが黄島貝塚の上層部では海水にすむハイガイが主となり、次第に海水化していったことがわかる。これが縄文時代早期に瀬戸内海に起きた。氷河期には瀬戸内海海底部にナウマンゾウなどの大型動物の遺骸が見つかり、それが島々ではなく海底であることからも、確かにかつてはここが凍っていたことがわかる。つまり縄文海進前には瀬戸内海は凍った巨大な湖だった。
それが温暖化でしだいに解けて行くために、縄文早期前半は淡水、後半にはしだいに汽水から海水へと外海の海水が入り込んできたのだということになる。
海水が上昇し、やがて島の内陸部に貝塚も上がってゆく。これらの貝塚もみな今は平野部の山すそに取り残された。そこまで海水が来ていたといういい見本の遺跡。

  ●倉敷市磯の森貝塚、西岡貝塚、船元貝塚、船穂町里木貝塚 
磯の森貝塚 厚さ2メートルに及ぶ高さの貝層に魚骨が混じる。漁労の開始を告げる縄文前期の貝塚。
その他の貝塚 規模の拡大=効率化。漁労採集集落の巨大化。貝では補えないカロリーを狩猟で。魚類だけでなく、鹿、イノシシの骨が混じるようになる。

  ●津雲人・・・笠岡市津雲貝塚。縄文後期・晩期に属する170体近い人骨が出土し、それらは津雲縄文人と呼ばれ、みな「縄文人の代表」と言われるほど縄文人そのものの骨格をしていた。鼻筋がよくとおり、彫りが深い。顔幅は現代人よりはるかに広く、高さは低い。全体的に寸詰まりな印象。身体はがっしりとしている。
前期から中期にはきゃしゃな体格のものがまじるが、後期・晩期になると双方を共有した津雲人に統一された。(以上津雲人の特徴は池田次郎『岡山県史「縄文時代人」』)しかしこういう変化は全国的には非常に異質である。

縄文前期以降、海水面は安定し、中国地方の河口部には河川からの土砂が堆積し、沖積平野が生まれていく。海が後退してゆくとともに、海産資源の枯渇が始まる。海浜にあった集落はしかたなく集団分岐を始め、小遺跡に。沖積平野に土砂堆積の激しい部分ができ、それが微高地に。やがて台地ができあがる。これが海浜集落の人々にとって絶好の居住地となっていった。

  ●岡山市百間川沢田遺跡(ひゃっけんがさわだ・いせき)
旭川東岸の微高地に所在し、四元地区では土こうや小貝塚とともに炉が発見された。居住域の発見。
貝はあいかわらずヤマトシジミなので、ここがもとは河口部だったとわかる。ドングリの貯蔵穴発見。定住採集生活の開始。石器出現。弥生時代の石包丁に似た形状。カッティングする道具。打製石クワ出現。こうして農作が始まったことがわかる。
  
  ●総社市南溝手遺跡
後期土器にモミの圧痕発見さる。
稲のプラントオパール発見。陸稲稲作の開始か?
同様に倉敷市福田貝塚で後期土器表面に圧痕、土器内部の土の中にプラントオパール。
備前市長縄手遺跡の中期末の住居壁土にプラントオパール。
美甘村(みかも・むら)姫笹原遺跡の中期土器内部の土からプラントオパール。
岡山市朝寝鼻貝塚の前期地層にプラントオパール。
(以上 高橋護「縄文中期稲作の探求」)

ただし水田がまだ未発見。
各地で石器・深鉢、浅鉢ぞくぞくと出土。

■縄文時代晩期後半
  ●百間川沢田遺跡
九州型の突帯文(とったいもん)土器の壷初めて出土。
加えて大陸系磨製石器の太型蛤刃石斧(ふとがた・はまぐりば・せきふ)が出土。=水稲稲作存在の証拠。
  ●総社市窪木遺跡・三軒家遺跡に朝鮮式丹塗り磨研土器
  ●総社市南溝手遺跡に朝鮮式孔列文土器
水稲稲作技術の半島人経由での開始が決定的。人も来たか?

■弥生時代
  ●岡山県南部一帯で水田跡出現・・・百間川原尾島・津島岡大・中溝・津島江道・津島の各遺跡から。
津島以外では、すべて地下水位の低い場所を選んで、乾燥した場所で出てくる。水田の区画は微高地に沿って長方形に形成され、一枚の面積はほぼ一定の整然としたもの。百間川原尾島では約20~250平方メートル。沢田では5~20平方メートル。津島岡大では10平米を超えない。

津島だけは低湿地帯で、地下水の影響を常時受けており、ここだけが湿田。

※初期の水田は津島遺跡のような湿田は極めて珍しい。ほとんどが乾燥した高台に出る。つまりこれは弥生中期の灌漑型水田と同じである。初期水田は全国的に微高地裾野のやや高台に作られた。ゆえに用水・排水路を必要とし、それらがほぼ大陸の高度に進化した灌漑水路を持つ水田がそのままやってきたことがわかっている。(以上 平井勝『古代を考える 吉備 「二 吉備的世界の形成」』から)

早期集落はとりわけ旭川周辺に顕著に多い。
前期になると広島の備後一帯から岡山県全域に増加する。
  ●また前期には環濠集落が出現する。・・・岡山県東部の百間川沢田・矢掛町清水谷、神辺町亀山・大宮の各遺跡。

環濠内部には「松菊里型住居」=中央穴の両端に柱穴を持つ。

※※中期前半には丘陵上の遺跡が爆発的に急増する。→水稲稲作では説明できない「集落状況の画期」。

■弥生中期後半
  ●高地性集落の出現
軍事的緊張?石鏃などの武器が70パーセント近くなる。
  ●分銅形土製品の急増  全国800点強の出土のうち320点までが吉備地域で!
鳥取や愛知でも出土するが120程度。
破壊されて埋められていることから呪具かと。
同時期に青銅器による祭祀も始まっている。
両者共にやがて同時期に消える。

  ●上東式土器
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弥生時代早期~前期には、いわゆる遠賀川系土器と突帯文土器が中心をしめる。=九州との交流。
それが前期の終盤になると、形式が変化する。口縁部を逆L字形にし、その真下に沈線を多数めぐらす甕である。これの分布は環瀬戸内海地域がメインで、中国・四国・近畿まで広がる。(秋山浩三)
これが後期になるといよいよ上東式土器に。
倉敷市上東(じょうとう)遺跡の出土が基準。
これの集中する地域は岡山県南部平野の中央部、吉井川東岸から高梁川西岸の範囲である。すなわち吉備中心部ということ。
この範囲が、いわゆる造山、作山などの前方後円墳、特殊器台、特殊壷などの「吉備王」の居住地に当たる。
以上参考文献 門脇禎二・狩野久・葛原克人編『古代を考える 吉備』吉川弘文館 2005

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以上の考古学的見地から、
吉備地方は縄文時代晩期後半までに九州との深い交流があったが、弥生時代早期に朝鮮半島と関わるようになり、大陸の最新式水耕栽培や青銅器、製鉄技術が取り込まれていき、やがて岡山県南部平野に中心部が定まっていき、横穴式石室を持つ大前方後円墳や中国的南部な弧文、あるいは上東土器と呼ばれる頸の長い特殊器台を生んでいったようである。
九州以外にも、対面する四国海人族ともつきあい、彼らの海運技術によって半島南西部と関わったのだろうと思われる。やがて3世紀前後になると九州とは疎遠になり、むしろ近畿との付き合いが深まる。というよりも、吉備勢力の率先した東への移動が考えられる。それは日本海側から容易に山地を越えられるという立地が、吉備勢力に脅威を与え、高地性集落を出現させ、やがて近畿へ。そこでまず河内南部から葛城地方へ侵入して、葛城一族とともに出雲国際港からの半島通商を拡大して行ったのではなかろうか?
最後に河内王朝がどこからか登場して、彼らの配下に吸収されてしまうわけである。


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