出雲・吉備・近畿・東国ラインからなぜ九州ははずれていったか?

■「文献史学的には、キビツヒコの事績はそれほど詳しく伝えられているわけではない。『古事記』では、彼は孝霊天皇の皇子の大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)の名で登場する。姉に箸墓古墳の被葬者に比定されているかの有名な倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトヒモモソヒメ)がいる。キビツヒコは異母弟の若日子建吉備津彦命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)と協力して吉備国を平定したことになっている。」
■「平定の理由として、次のような話が語られている。そのころ、百済の王子と名乗る容貌魁偉の温羅(ウラ)という人物が吉備の国にやってきた。 温羅は新山(総社市)の鬼の城(きのじょう)を居城として悪事を働いて人々を困らせていた。そこで、温羅を征伐するために、キビツヒコは異母弟ととも兵を率いて山陽道を進軍し播磨国に達した。そして、ここを吉備の道口と定め、加古川の畔で神祭りを行なった。こうして吉備国に入り、温羅一族を苦戦の末に退治した。その結果、この地方に平和と秩序がもたらし、キビツヒコは上道臣(かみつみちのおみ)の祖となり、ワカヒコタケキビツヒコは下道臣(しもつみちのおみ)や笠臣(かさのおみ)の祖となったという。」
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/history.htm


■吉備
「(前略)7世紀末から8世紀のはじめに実施された分国によって、この地域は備前・備中・備後・美作(みまさか)に分けられた。それ以前は「吉備国(きびのくに)」と呼ばれていた。この吉備と呼ばれていた地域は旧石器時代から人類が足跡を残している。 」

備後とは広島県東部の三原市周辺部である。つまり西暦200年代という最古の小製鉄炉である小丸遺跡などが出たその周辺部である。
そして4~6世紀にかけて、吉備一帯がいかに製鉄が盛んだったかは、先に書いておいた赤松林の存在で、最近までここがマツタケ収穫量日本一だったことが象徴的に示していることになる。三世紀初頭からの製鉄用炭焼き材として赤松が盛んに移植されたためにそうなったわけだが、現在はマツ枯れ病の流行でかなり植生も変化した。考えるべきは、赤松植林以前には、この一帯は広大な照葉樹林の原始林だっただろうということであろう。小丸などの原始製鉄炉のきざしから、およそ200年間の時間で、吉備が赤松林となっていくのであろう。その応用は火力の強い炭生産を、製鉄のみならず牛窓・児島などの藻塩生産へと向かわせただろうし、製塩は四国の海人族によったことが考えられる。また加工された鉄鉱石による鉄素材による国内外との交易も当然あっただろうし、鉄加工品は農具へと向かい、それがこの地にすでに縄文後期からあった陸稲稲作、のちに弥生渡来人による水稲稲作を闊達にさせ、かつ同時に土木工事も充実し、農・工・商充実による、同じ3世紀の大和や、北部九州をもしのぐほどの国力確保へと向かわせたことだろう。

■前方後円墳と弧文の派生国としての吉備と百済系移民
百済系移民はその中心は古墳時代から奈良時代に起きているが、3世紀初頭から後半にかけてすでにそれがあったのではないかと思いつく説話が上記「百済から来た異形の人・温羅(ウラ)伝説に表出していると思われる。
この鬼とも擬せられる「容貌魁偉」なる人物の一党は、時代的には河内王朝の雄略直前にここにいて、おそらくであるが美作から吉備中山の製鉄氏族だったのではないか?その繁栄を大和から河内王朝(『日本書紀』では崇神時代)に派遣された大吉備津彦・吉備津彦という将軍によって奪い取られるということになる。だからこの話はちょうど雄略前後の倭王が吉備王家を帰順させて臣下にする歴史書記述に当たることになるだろう。吉備津彦が桃太郎に擬せられ、雄略もまたヤマトタケルに擬せられているのがわかりやすい。

この吉備王一族が帰順したと考えられる理由は、そのあたりで近畿地方に増えてくる阿蘇凝灰岩石棺に関わって、肥後の八代地方に火の葦北国造が出現し、それが吉備王の兄弟であるという笠臣の出身であり、国造の息子・日羅を通じて百済とも通じ、さらに河内王朝の武人であり靫負部であった大伴大連の臣下としての記事があることと矛盾しないのである。

阿蘇凝灰岩石棺は天草地方に始まって、その分布は一気に吉備へと飛び火、さらに大和、近江、摂津へとひろがってゆく。それが4~6世紀の前方後円墳と吉備独特の横穴式石室の急増する時期にぴったり一致。ところがその頃、北部九州勢力も半島の西南部に横穴式前方後円墳を持つ人々が渡っている。
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藤井寺市長持山2号墳・阿蘇凝灰岩灰石とピンク石組あわせ石棺

吉備はご存知のように雄略によってほとんど滅ぼされ、その後現れる吉備関係者はすべて大和が派遣した吉備津彦の子孫を出自とする氏族になっていった。この時点で旧吉備王家は消えたと見られる。こうして河内王家は次に大和の葛城一族を滅ぼし、河内王朝は完全に大和を掌握。それが数世代でもう古志からやってきた継体大王によってゆるやかに政権交替した。

■考古学・文献の中心から消える北部九州

この流れの中に、なぜか2世紀までの先進地帯・北部九州勢力が関わらないのである。それはちょうど3世紀の纒向に北部九州の土器が出ないことに合致するように見えてしまう。つまりこの時代、歴史の中心地は吉備から東に完全に移行していくのである。それはなぜなのか?邪馬台国時代にはまだ明確に近畿と確定できない状態のゆるい連合が、吉備・葛城の帰順と協力によって河内王朝という実力者を生み出し、それがついには継体大王以降の大和王朝の前身に発展してゆく。そして纒向以来にわかに現れる東国の土木工人や職能民たち。これもまた近畿勢力に加担し、やがてその地位を臣、国造クラスへと上昇していった・・・。その頃、半島では新羅がにわかに台頭し、筑紫で大きな反乱が・・・また飛騨などで小さな反駁記事。そして北関東の突如とした大繁栄と吉備・東国に出現した百済系渡来氏族たち。

河内王朝に嫁を出してきた東国愛知の尾張氏が継体大王へ嫁を出し、政治地図は一気に摂津王家と百済の蜜月時代を迎える。
雄略の子である武烈以後、継体が来るまで、近畿はきな臭い記述が多くなる。

崇神という三輪王朝の存在が確実になることが待たれる謎の四世紀だが、あくまで異例の女王だった卑弥呼とトヨのあとの男王がそれかどうかはまだ知らぬが、笠臣の姉はあの箸墓の慰霊であるというヤマトトトビモモソヒメなのである。
つまりこの巫女ヒメは、吉備から来て大和にとつぎ、大和の祟り神である大物主の神妻=祭祀者となり、その神霊を抑えきることができずに死んでしまうのである。大和の祟る神とは、先住していた出雲系氏族たちの強烈な反駁を象徴しているように見える。すなわちニギハヤヒ・別伝彦ホアカリ命の舅だった先住民・ナガスネヒコにこれがあたろうか?それを抑えるために吉備から巫女が神に嫁いでくる。神に嫁ぐとは要するに人妻でない=一人身=「夫倅なし」と変わりない。そして代理王としての政治をするのが三輪王朝なのであろう。


箸墓古墳・本年撮影提供高知県在住T女史

ここの科学的証明ができないので、邪馬台国と三輪王朝、河内王朝、そして攝津、飛鳥、奈良時代が誰にもつなげられないわけである。ここをつなぐのは考古学しかない。そのヒントはおそらく纒向で出てきた吉備系の遺物にあるだろう。弧文と盾築式埴輪。もっと例証がほしいものである。おそらくそれらが吉備=卑弥呼、吉備=前方後方墳後円墳発祥地をあきらかにしてくれるだろう。

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纒向遺跡出土弧文版

しかし今ひとつ問題なのは、吉備の古墳に多い九州的装飾である。当然、北部九州と吉備にも古いつながりはあったはず。いったいなにが北部九州を孤立させてしまったのか?歴とした答えはいまだ見つからない。

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