■上下、毛野(かみつけ、しもつけ)の由来
『万葉集』巻十四「東歌(あづまうた)」で上毛野は「可美都気努」「可美都気野」と読むようにとの指定がある。「野」は「ぬ」と読んでもよいし、「の」と読んでもよいことになる。つまりこの「の」「ぬ」は異音でも意味は同じ「~の」という助詞であるかと筆者には見える。

日本古典文学大系本『萬葉集 一』(昭和32年・岩波書店)「校注の覚え書」も、「努」は「ノ甲類」(=no音)を表す万葉仮名と明記してある。

これは奴国の「な」が古くは「ぬ」であったことに対応している。「な」「ぬ」「の」がかなり短い時間推移、あるいは地域地方によっていくつかの横訛る読み方をされていたということだろう。それが朝鮮語の影響だったか否かは、ここでは置いておく。沖縄などでは今も助詞「の」を「ぬ」と発音する。

従ってこの際、毛野は「けの」と読んでおくこととする。すると上毛野国は当初「かみつけのくに」と読むことになる。
これに関して熊倉浩靖は著書(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』雄山閣)の中で「かみつけの”の”くに」と読むべきだと書いているが、筆者は「の」は助詞と考え「かみつけのくに」と読みたい。
なんとなれば、後世、上毛野・下毛野は表記を「上野(群馬県)」「下野(栃木県)」へと変化させ、訓読も「こうづけ」「しもつけ」へと大きく変化した。つまりいずれの国名も、音韻で「の」が割愛され、ところが表記では「野」が残されているわけである。もっとも大切な由来部分であろう真ん中の「毛」が双方とも失われた。「上・下」は国の都から見た遠近の意味しかない。「野」が字義通り「野原・平野」を指すのであれば万葉仮名が「努」の文字をあてていた意味が不明になろう。野でも努でもよいのなら、本来的にそこに「平野」の意味はなかったと考えたわけである。諸説あろうが、この問題はここでは一応これで通させていただきたい。後日、解釈に齟齬あった場合はそのおりに修正したい。ご容赦を。

「こうづけ」「しもつけ」と、「の」が消えてしまうことも自説を助けていると感じる。「の」が二度重なるのを嫌がったとも考えられはするが。

さて、文献上、上下毛野国の前身として「毛野国」があったという記録はない。にも関わらずこの国は最初から上下二国あったとなっているわけである。このような凡例は全国でここだけである。(『先代旧事本紀』には記録があるがこの書物自体由来不明)

この「毛」とは思うに「蝦夷」を表した「毛人」の意味ではないかと考えられ、豊前国にあった上毛・下毛(かみつみけ・しもつみけ。のちにこうげ・しもげ)とはおのずと意味合いが違うようである。豊前の「毛」は「ミケ郡」が二分割されたもので、「毛」は「神饌=みけ」に由来している。

ここに住まってここを本貫としていた上毛野氏、下毛野氏は、この地名を冠したものと考えてよかろう。つまり彼らも、往古はどこかほかの地域からここへ移住したのか?
あとになってこの賜姓を望んだ人々には、縄文からの先住氏族だった君侯部(きみこ・べ)の改姓があるが、これは両地域を管理した毛野氏族の強さにあやかった氏姓要求だった。だから蝦夷系上毛野氏は分類上はじいておく。

■東国六腹の朝臣の長としての上毛野氏。
東国の主に北関東地域山岳部には東国六腹と言われた毛野一族のゆるやかな同族が存在した。
この記録は雄略紀、崇神紀にすでに見えるが、そこから彼らを在地先住氏族と思うのは早計である。
記録的には5~6世紀に、古墳からは4世紀半ばには、北関東に彼らがいたことは間違いないが、崇神天皇紀が関東を東国(あづまのくに)と呼ぶようになる3世紀後半ころから存在する可能性もあるし、あるいは河内王朝時代に半島から渡来した可能性もある。人によっては蝦夷出自を言う説もある。

1 東国六腹の朝臣とは以下の6氏族を指す。
下毛野朝臣
上毛野朝臣
車持朝臣
佐味朝臣
大野朝臣
池田朝臣
で、いずれも崇神天皇皇子の豊城入彦命子孫を自称する。
このほかに
2 渡来系と自他共に認めているはずの田辺史一族が多奇波世君(たかはせの・きみ)を祖とするが、これが上毛野朝臣賜姓されたのは平安時代である。
3 これ以外に関東から遠く離れた紀伊・和泉を本拠として大阪湾沿岸に広くいた紀伊・和泉氏がある。

■ここでは車持朝臣の由来から、群馬県の県名由来を導く。
車持(くるまもち)という変わった氏姓は、彼らが御輿を担ぐ栄誉を承ることから始まるようである。
この場合の「くるま」とは天皇を乗せる「輿輦=こしくるま」の周囲にはべる人々の職掌で(『令集解』)、『日本三代実録』元慶六年(882)12月25日条に、「職令を検すに、殿守四十人は日置、子部、車持、笠取、鴨の五姓の人をもって、これとなす」とあるから、車持朝臣は車のついた輿?関係者であろう。

日置は「引き」で牛車を引く係り、子部は湯沐(ゆえ)で天皇家の乳母家を指す。稚児?従者か?笠取は蓋(きぬがさ)をささげる係り、鴨は露払い=ナビ?かと考えられるか?
日置は熊本県にも凝灰岩などの切り出し石を引いた氏族で日置氏が中世玉名郡にあるから意味は「引く」であろう。(かわかつ)
(湯沐の職掌については同じ関東に壬生氏などがある。渡来系氏族が多かったように思える。壬生氏と毛野は深く関わりがある。)

この「くるま」であるが、群馬県は今でこそ「ぐんま」と読み、その由来をここに多かった馬牧からという定説があったが、その馬牧の大本がどうやら天皇の御者的存在だった車持一族に関わっており、「くるま」がつづまって「くんま」やがて濁って「ぐんま」となったのだと考えるのが正しいのではないかと、熊倉は書いている。『上野国神名帳』に「群馬西郡条」があってこれには「くるまにしのこほり」とある。

他の六腹もそうだが、車持朝臣は関東にのみいたわけではなく、富山県、石川県、京都府若狭、摂津、筑紫、さらにあとには豊前にまで分布していた。




あとで問題になる河内王朝時代に筑紫の三神(宗像三女神)の祟りを受けるような悪事を行ったと記録がある。(『日本書紀』履中天皇5年)。簡単に言うと車持部の者が、献上の品を持ち寄った地元民を車持君が査察した上で、いくらかくすねたということらしい。つまり車持君という東国出自氏族の中に筑紫や豊前、摂津などで国衙か郡衙に深く関わる税関管理者として赴任していたということであるが、豊前から筑紫などに東国的な方墳が、彼らの古墳だった可能性まで見えそうな話である。

かつて豊前、筑豊の方墳や、また先日大分県別府市の方墳も見てきたが、東国から来た官吏のものである可能性はあるだろう。

つづく

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