■美作国は和銅六年(713)、備前守だった百済王南典と同じく備前介・上毛野朝臣堅身(かみつけぬ・あそん・かたみ)の上申によって新設された国。現在の岡山県津山市あたりである。
初代国守には上毛野堅身が就任した。

東国、群馬周辺をを出自とした毛野(けぬ)氏出身の堅身が陸奥守からこの地に新しい国を造営する主たる人物だったと見られている。(熊倉浩靖2008)

美作国の前身は『日本書紀』欽明16年(555)に置かれた白猪屯倉だろうとされる。この屯倉は鉄生産に大きくかかわる特殊な屯倉であったと考えられている。備前北部から美作の周辺では「鉄屎(かなくそ=鉄滓)」がいくつも発見されている。おそらく5~6世紀にここで確実に製鉄があった例証である。ゆえに白猪屯倉もこのあたりにあった可能性が高い。

百済王一族は白村江以来の帰化氏族で、敬福をはじめてとして鉱物に関わってきた。

岡山県には3~4世紀にはすでに始まる製鉄遺跡がいくつかあることはすでに書いた。→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51878267.html

6世紀から7世紀になると美作地方にはにわかに半島や九州に多く、やがて大和、全国へと広がった横穴式石室を持つ古墳が増え始める。そしてその石室からはよそにはない不思議な棺が出てくる。陶器でできた棺桶・・・。土師質の陶器でできたこれらの陶棺は美作にのみ集中し、その出現は爆発的数である。




上、津山市寺山古墳 土師質亀甲形陶棺
下、美咲町唐臼古墳 同上
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こうもり塚古墳 同上


美咲町の唐臼古墳のものには装飾紋がある。
「唐臼1号墳は横穴式石室で、その内部に安置されていた亀甲型陶棺。装飾文様は白色顔料で蕨手状の文様や円文内部に不整形円文を描くなど非常に珍しい装飾が施されている。類似例としては奈義町の霊明塚古墳の陶棺が挙げられる。
この唐臼陶棺は棺身平部の両側に描かれており、″正面感″は意識されていないようである。」

これらの土師質陶棺はやがて須恵質へと受け継がれていき、古墳の流行が去った後も美作のみで火葬蔵骨器の製作が続いた。
これはひとえに白猪屯倉の管理にたづさわった百済系渡来人・白猪史膽津(しらいのふひと・いつ)一族の移住によると考えられる。
この氏族が特定できる理由は、これより前に武蔵国横渟(よこぬ)屯倉設置に際して、その管理にたづさわっていたのが、同じ百済出身渡来人だった壬生吉志(みぶ・きし)が屯倉に定着してから横穴式石室が爆発的に増え始めるからである。(金井塚良一1980)

こうして東国と美作で、
1横穴式石室の爆発的増加 
2製鉄増加
3渡来系屯倉管理者
が時を移して始まったのは、彼ら百済系渡来氏族の定着が非常に関わることがわかった。
そして美作と武蔵がその中心的場所となったことで、両者の間に氏族によるつながりがあったことも見えた。

6世紀の大量製鉄に関わるのは百済系渡来人だったと言ってよいだろう。また屯倉の管理者の多くがやはり百済系である。これに関与して美作の中心地である大庭郡郡司に白猪臣氏が登場している。(『続日本紀』天平神護2年)

以上参考文献 熊倉浩靖 改訂増補版『古代東国の王者 上毛野氏の研究』雄山閣 2008

どうやら横穴式石室、陶製の棺桶、製鉄が美作でセットになって出現したということらしい。
つまり岡山県や広島県の瀬戸内地方に、製鉄を中心とする渡来系氏族が、吉備王以後、かの地の鉄鉱石や砂鉄などがあるためにここが選ばれた。それが6世紀頃の倭王時代終末に起きたと。これが雄略の仕事だったか、それとも継体の仕事だったか?
次回に続く

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