正岡子規を出すことでも著名な伊予の水軍・越智、河野、村上一族の特に河野一族に伝わる『予章記』に、小千守興(おちもりおき=越智守興)という人物が抑留中にはじめて中国伝来の陶器の茶碗を使った話を、森浩一が引用している。

森は、陶器の茶碗を使うということは、河野一族・越智氏と中国との間の交易の存在があった可能性もあると言いたいわけであるが、この記事は記録上では、最古の陶製茶碗使用記事である。

つまりそれまでの日本人はみな、おおよそ土器(かわらけ)茶碗を使っていたことになるだろうが、この「茶碗」という言葉は、今のような「飯を食う道具」になるのは随分あとのことだそうだ。
茶碗といえば当初は「茶を飲む道具」である。

だから記事的にはやや時代背景(唐代)が合わないのであるが、松山市の大渕遺跡で、たまたま中国製あるいは朝鮮製と思われる彩文土器(2500年前の製作)が出ている。赤色の色鮮やかな壷であるが、半島でこのような土器が作られるようになるのはやはり、中国の陶器の影響かと思われる。伊予の遺跡では多くの鉄てい(インゴット)も出ており、越智氏は少なくとも大昔から半島と交流していた海の貿易者だったようなのである。

日本の為政者や貴族が陶器の食器を使ったという記録はほとんど見えない。奈良時代になっても和歌にも
  
   家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る 有馬皇子

とあるように、食器はせいぜい木製の笥である。平民ともなれば「深草」=土器=カワラケであろう。
となるとこの話は後世の作り話だったか、あるいは唐に捕らえられて陶器の茶碗を使ったということになろうか。

陶器の茶碗が日本で使われ始めるのは江戸時代以降になるだろう。

というのも、日本人は縄文の古代から、平民は江戸時代になっても、食器や箸を使い捨てる風習があった。それは日本人独特の穢れ、不浄観もあったが、なにより使い捨てた方がいちいち洗わずに済むからだったと考えられる。それだけ水が貴重だったとも言えるが、今のように自由に使え、清潔な水がいかに少なかったかを考えるべきだろう。諸氏は日本のように渓流から水の湧く国で、食器を洗わぬほうが変だと思うかもしれないが、都市などでは川の水は洗濯や用足し、あるいは製鉄、金鍍金などによって、かなり水質がよくなかったのではないか?つまり古代の遷都の多さからも、浄化する水路としての川の機能は数年で悪くなったことを思いつくのである。

斐伊川から箸が流れてくるというスサノオの神話があるが、あの箸も使い捨てたものだったのかも知れぬ。ただし、この神話もちと変である。古代の箸は今のような二本の木ではさむのではなく、ピンセット式の上部がつながった、一本の枝を曲げただけのものだったからだ。これが流れれば、すぐにひっかかってしまい、下流に流れてくることがないことになる。

ま、いいか。




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