日本最大の石室を飛鳥の石舞台古墳だと思っておられる方はけっこう多いが、実はそうではない。最大最長の石室は奈良県見瀬丸山古墳で、二番目は福岡県福津市の宮地嶽神社古墳である。

見瀬丸山は今、一般的に「丸山古墳」と呼ばれる。その立地地域のほとんどが見瀬地区に含まれていないからである。この古墳の被葬者は十中八九欽明天皇とその関係者(二名の石棺がある)だとされている。
欽明天皇は継体の息子で、異母兄弟に安閑・宣化天皇を持つ。いわゆる聖徳太子の先祖である。
彼の時代は二朝並立時代だったというのがかなり信憑性の高い説となっている。石棺は新しいものが奥に、古いものがいったん引き出されて手前に置かれているという変わったもの。

第二位の宮地嶽古墳は宮地嶽神社の奥宮になっており、普段は内部が見られない(入り口は見られる)で、それそのものが奥宮になっている。
 「玄界灘にのぞむ福津市津屋崎に宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)が鎮座している。全国の宮地嶽神社の総本社である。日本一大きなしめ縄で有名な社である。拝殿に重さ数トンにもなるというしめ縄がかかっている。太く実に立派なものである。
 宮地嶽神社の境内地に国内最大規模の横穴式古墳がある。石室から金銅装透彫冠など三百数十点の遺物が出土。被葬者は宗像族の宗形徳善と考えられている。徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)は大海人皇子(天武天皇)の後宮に入った人。高市皇子の生母である。高市皇子は、天武天皇の最年長の皇子。生母が地方豪族の出身であったことから帝位につくことはなかったといわれる。壬申の乱では全軍の統帥権を握り活躍した英雄。太政大臣に執したが若くして薨去。柿本人麿が長歌を献じているが、高市皇子の生前の勇姿をうつしてあますところがない。
・・・鶏がなく 東の国の御軍士を 召したまひて ちはやぶる 人を和せと まつろはぬ 国を治めて 皇子ながら 任けたまへば 大御身に 太刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし  御軍士を あどもひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も あたたみる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる ・・・ <万葉集 柿本人麿詠歌>
 古墳は奥の宮不動神社として信仰の対象となっており内部の見学はできないが、年三度の祭礼日には石室に入って参拝することができる。石室の全長は21.9メートル。石舞台古墳のそれをしのぎ、大和の見瀬丸山古墳(前方後円墳)の石室(26.2メートル)に次ぐ全国2位の巨大なものである。40年ほど前、見瀬丸山古墳の石室を覗いた記憶がある。石室内に石棺が2基置かれ、浸水によって池のようになっていて石室内がひと際大きく感じたものである。宮地嶽古墳の石室の大きさも推して知るべしであろう。宗像族の勢力をそのままうつしたモニュメント」http://www.k2.dion.ne.jp/~kisa/fukuoka_j2.htm

2a930064.jpg




5a2ca5ea.jpg


1a2d1e3b.jpg


bed0c5c0.jpg




海の貴種である宗像一族の首長だった宗像君徳善。
この神社は対面する津屋崎の海からはるかなる壱岐・対馬そして朝鮮半島を見晴るかす宮地嶽山の中腹にあって、まさに海外を見据えている。

だからこの古墳に行ったら長い階段や奥宮への参道を上りながら時折振り返って津屋崎の玄界灘を見るようなつくりになっている。その津屋崎海岸に鳥居が建っているので、まずここに来たら鳥居の向こうの玄界灘を見ることに筆者はしている。
鳥居の狭い区画の中を、玄界灘の海面は激しく上下する。それで目がくらくらして神がかりしたような気分になるのである。
そして振り返ると三角錐の宮地嶽の上へといくつもの鳥居が並ぶなまを見るのだ。
宗像一族は渡来系海人族だったと言われ、高句麗系などの多くの神宝が出土。高句麗系金銅王冠はおそらく高句麗王からじきじきに彼に贈られたのだろう。大和には出ないものである。
宗像から安曇にかけてここの海の民は「海人かいじん」と呼び習わされてきた。はるかなこの海を越えて彼らの祖先はやってきた。