これもまるわかり、四道将軍伝説は崇神ではなく倭五王の事跡である。これは完膚なきまでの近畿中心主義へのアンチテーゼである。
自信をもって「傑作」「ランクリ」を要求できる記事だと思う。納得できないあなたは歴史研究やめるべし。大ヒントの群れである。見なけりゃそんする。画像大盤振る舞い。


四道将軍・オオヒコ、ヌナカワワケの墓か?
ちがうけれど・・・
会津盆地の首長墓

■一箕古墳群(いっきこふんぐん)
 会津大塚山古墳 4世紀中頃 前方後円墳 全長114m(東北第四位の大きさ)  発掘調査済
竪穴式、密封型、割り竹型木棺、靫、鉄剣、三角縁神獣鏡などを副葬。直弧文あり。靫は朱塗り。つまり近畿型の密封式葬送様式を持つ。したがって被葬者は近畿(河内王朝系)、あるいは安曇系か尾張系。


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 堂ヶ作山古墳   4世紀前半 前方後円墳 全長84m   試掘調査・探査調査 主体部未発掘
 飯盛山古墳    4世紀前半か前方後円墳 全長65m   探査調査済      主体部未発掘
 一箕八幡山古墳 不明     前方後円墳  全長約50m 宅地造成で消滅
 天子ノ宮古墳   不明 円墳か前方後円墳 全長約50m 未調査  
 石仏古墳     5世紀か   円墳      消滅   石棺の蓋のみ会津大塚山古墳上にあり
 大塚山円墳群  4世紀から7世紀
 大塚山横穴墓群 7世紀
 墓料遺跡      弥生時代の再葬墓。出土遺物は市指定文化財
 村北古墳群    6世紀から7世紀  市史跡の村北瓦窯跡内に一部石棺を移転し保存
 村北瓦窯跡    7世紀末から8世紀前半 市史跡
 大塚山経塚    12世紀後半 珠洲(すず)窯Ⅰ期の波状文四耳壺が出土
 大塚山遺跡    縄文時代中期と後期の遺跡
 大塚山城跡    中世の山城跡。土塁、平場が残る規模の大きな山城跡。
 会津大塚山窯跡 1590年から1610頃までに焼かれた東日本唯一の大窯。東日本最古の近世            
   窯。天目(てんもく)茶碗を焼いている
引用先→http://www17.ocn.ne.jp/~aizua/page051.html


■会津盆地の古墳群
会津盆地には三つの同時期(4世紀前期から中期)に派生した古墳群がある。
会津最古の古墳・杵ガ森古墳などを擁する宇内青津古墳群、四道将軍大彦の古墳と以前は言われていた会津大塚山古墳を擁する一箕(いっき)古墳群、そして前方後方墳墳と方墳で構成される雄国山麓古墳群である。



この中で宇内青津古墳群にある杵ガ森古墳(4世紀前期)や臼ガ森古墳(同)など多くの古墳が発掘され、それらが会津大塚山(4世紀中期)よりも古いことがわかったために、大塚山は記紀の崇神天皇のような古い時代(3世紀)に派遣された四道将軍の伝説に見合うものではないことになった。

■東北唯一の方形周溝墓出土地帯
また盆地内にはさらに古い時代の方形周溝墓群や前方後方周溝墓群を持つ集落遺跡である中西遺跡、坂下町男壇遺跡、宮東遺跡が出ており、ここからは北陸の能登系土器と北陸系竪穴式住居・貯蔵穴が出たので、これらの弥生前期遺跡が能登から来た人々がいたことを証明した。

それまで東北地方には方形周溝墓はないと言われており、西日本が縄文から弥生への移行する温暖期には会津にも弥生倭人が入り、生活様式は弥生的稲作農耕生活になりかけたが、再び寒冷期が来たことで、東北全体がまたもとの狩猟採集生活に戻っていることがわかっている。しかし会津盆地には九州や大和の方形周溝墓ばかりか、尾張地方の方形や円形の周溝墓や、前方後方形の周溝墓が出土した。

また土器も、東北は弥生時代になっても縄文的縄目や装飾を持つ土器が使われ続けたにも関わらず、会津では能登弥生様式の模様や装飾のほとんどない土器が出土する。

おまけに安曇の本拠地であった長野県安曇野から松本市大室古墳群最上段にある合掌天井式石棺まで存在する。こうして合掌式石棺が安曇族の様式であることまで証明できるのだ。大室古墳群の中段は高句麗式積石塚古墳がいくつもあり、安曇様式と高句麗様式が仲良く同居しているのだから、安曇族が高句麗と交易していた、海人貿易まであきらかになるのである。
どうしてこんな簡単な構図が今まで考古学の中から出ていないのだろうか???





■能登からどうやって磐梯山のある福島県の山深い盆地へ弥生文化を持つ人々がたどり着いたかと言えば、日本海の信濃川・阿賀野川の河口部が港であり、特に阿賀野川が会津盆地へと繋がっていたためである。これは出雲のタケミナカタが安曇族であり、信濃川から信濃に入った(逃走)記事にある。阿賀野川と信濃川はその河口部が隣接する。

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能登はどちらかといえば日本海共栄圏で、富山湾の「ぬなかわ・ひめかわ文化人」と深く繋がる地域である。つまり出雲のタケミナカタ=安曇海人族の系譜であろう。すると会津に周溝墓を作る能登弥生人はすでに九州か大和の墳墓形式を持っていたことになる。さらに尾張・美濃に多い前方後方周溝墓を持った人々が東海側からも入り込み、こちらはやがて尾張氏・狗奴国型大型墳墓である前方後方墳へと発展させていったのだと想像できよう。

■■これは記紀の四道将軍東征伝承の、日本海側からは建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと・ぬなかわは古志のこと)、太平洋側からは大毘古命(大彦・おおびこのみこと)が遠征し、会津で出会ったという記事にぴったりと合致することになる。それは逆に言えば、大彦とは尾張系の首長であったことを証明したことになる。埼玉県稲荷山古墳の鉄剣に書き込まれた「ワカタケルの時代の」「オオヒコの子孫の」という象嵌銘文の人物が、東海から関東へ広がった前方後方墳・方墳文化の担い手であり、それは尾張氏系譜であるという筆者の仮説はこうして見事に証明された。


■そして会津の四道将軍東征伝説が3世紀の崇神・三輪王朝の事跡かどうかと言われれば、これはどうしても応神・河内王朝に事跡であるとなる証拠が、古墳から出た靫の実物と大和系直弧文の装飾と、そして三葉環頭太刀であると思う。
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この古墳が近畿の豪族の古墳であることは出土物の三角縁神獣鏡・ニ神二獣鏡・鉄剣・管玉(三種の神器)、直弧文、密封型竪穴式石室などで証明できる。しかしそれが大和王権のものであるとは思わない。大和の学者の学説はなんでもかんでも大和に持っていくが、これはあきらかに河内王朝のものである。へたをすると三角縁神獣鏡は今後、倭五王が始めた鏡だとなる可能性すらでてきた。
くれぐれも申すが、倭五王と継体以降の大和朝廷の間には、葬送様式(三種の神器や鉄剣埋葬や多くの鏡や直弧文や竪穴式石室、割り竹型木棺など)の引継ぎは見られても、「血脈のつながりはないと大和の権威的学者も認めている。」
河内王朝は大和王朝と血で繋がっていないのだから、大和学派が、二つを別物と考えないのが筆者には不思議でならない。
先日の分析でも大和は日本海共栄圏を奪う(国譲り神話)ことはわかっている。

■四道将軍
4世紀前期から中期と言えば崇神から応神への移行期にさしかかる頃である。
この記事は記紀ともに共通する伝承である。
従って、時代は別にして河内王朝時代には必ず実際にあっことだろう。
ところが古志の沼河を名にした豪族が三輪王朝時代にはいない。ゆえに学者はこれまでそのあとのヤマトタケルや景行天皇の事跡を東北にあてはめ、崇神のような古い時代に入れ込んだと見てきた。しかし、オオヒコは倭五王終末の大王であるワカタケル=雄略の数代前の人であることが稲荷山鉄剣銘文で証明できる。つまろ四道将軍記事は本当には応神か仁徳あたりの出来事だと想定できるわけである。こうしたことからやはり崇神から三輪王朝、そしてヤマトタケルまでの、応神の前にある記事群はみな河内王朝時代の事跡だったと言うことにおちつくのである。

こうして大和学派の、考古学の「不都合にはわざと気がつかない志向性」は明白になったと思う。
もちろんだからと言ってそれが邪馬台国九州説とは、筆者はならない。
それとこれとは別のこと。
大和学派の証明のやり方が気に入らんということだ。

会津坂下 2期後 亀ケ森古墳 宇内青津古墳群 会津坂下町青津 127m
3-4期 鎮守森古墳 宇内青津古墳群 会津坂下町青津 55m
3-4期 森北1号墳 宇内青津古墳群 会津坂下町大上 40m
2期 杵ガ森古墳 宇内青津古墳群 会津坂下町稲荷塚 46m
喜多方 4期 舟森山古墳 雄国山麓の古墳群. 喜多方市塩川町 ?
5期 深沢古墳 雄国山麓の古墳群 喜多方市塩川町 42m
会津若松 2期 堂ケ作山古墳 一箕古墳群 会津若松市一箕町 84m
3期、4c後 会津大塚山古墳 一箕古墳群 会津若松市一箕町 114m
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/minamitouhoku-1b.html

アンチ大和学派に贈るKawakatuからのプレゼント記事である。

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