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紀元前から古墳時代にかけて、地方の豪族たちが収集していた中国・半島の煌くような副葬品の数々を見ていると、いつも思うのは現代の九州とのギャップだ。
金メッキされた鏡もルビーやラピスラズリに飾られた華麗な鉄鏡も、まして純金の金印も、特に九州のものは他の追随を許さない豪華さである。
しかもそれが熊本県南部の人吉であるとか、豊前の地下式横穴墓であるとかの、北部九州の中心地から遠く離れた地域にも存在する。
一点豪華だというのではなく、このほかに同時埋葬品が実にたくさん入れられているのである。
ことに銅鏡の愁眉さは、このようなものが決して大和の同時代の古墳からは出てこないということが重要なのだ。
古代史では九州は、天孫が降臨し、そこから最初の天皇が遠征し、大和を平定したと書かれている。しかもこれは大和朝廷の史書がそう書いたのだ。これらの副葬品はそれを裏付けるかのように周防、吉備、、岐阜までの瀬戸内沿岸や内陸部に同類の大陸からの下賜品を点在させており、大和からは出ていないのである。それがどういうことなのか?をよくお考えいただきたいのである。



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志賀島の金印が贋物だという意見もかつてあったが、ではあれだけの純金をその後の時代に手にし、金印へ加工し、しかも自分のものとせず古墓に埋葬するなどという馬鹿げたことを、江戸時代の地方大名などにできたかどうか、よく考えればいいだろう。参勤交代であえいでいた地方の武家にそのような金も暇もないだろう。金の価値を知らぬ浅はかな考え方ではないか?しかも当時の黒田家は岡山県福岡の出身者であり、ことさら九州に肩入れする動機もまったくありえないではないか?

大和の繁栄は遅れるのだ。
それを忘れないでもらいたい。
少なくとも6世紀まで、九州は三つの国の連合があり(筑紫・肥・豊)、大和の大王たちは九州に一目置かねばならなかった。磐井が継体に敗れるまで、そこは中国や半島から見て、このような豪華な品を贈って交流すべき実力を持っていたのである。
ここを度外視すると古代史は大和中心の独善的・恣意的理論ばかりになるだろう。
それが副葬品をちゃんとよく見ることで、圧倒的な力の差異を認識して欲しい。
ただの銅鏡、ただの漢鏡ではなく、鎏金であることの意味を認識していただきたいのである。

言えることはただひとつ格が違うのだ。


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