新しい疑問は、
■1 ではなにゆえ苦心して造った鏡を平原の人々は破鏡したのだろうか?
破鏡に関しての専門家の諸意見は以下の如し

桜井茶臼山古墳出土の銅鏡 貴重な鏡、なぜバラバラに?
1研究所の担当者は「石室には当初、鏡がびっしりと置かれていたはずだ。盗掘者が足を踏み入れた途端に踏みつぶした可能性は十分ある」とする。

2しかし、研究所の前所長の樋口隆康・京都大(考古学)は「いくら盗掘で荒らされても、これほど粉々に壊されるはずがない。最初から破片を納めたのでは」と指摘。「被葬者は生前、破損した鏡を集めてリサイクルし、新しい国産鏡を作り出す役割を担っていた」と推測、その象徴として破片を埋葬したと考える。

3一方、福永伸哉教授は「中国から譲り受けた一級の鏡をバラバラに割ることは考えられない。当初はすべて完全な形だった」とみる。
「盗掘は鏡ではなく、銅の素材を入手するのが目的だったのでは。粉々に壊されているのは盗掘品として足がつかないようにしたのかもしれない」と想像する。(よくそんなこと考えつくものだ。)

ようするに最初から割られていた説とあとの時代に盗掘にあって割られた説に大別できる。
どの説も各人の想像の域を出ていないし、1などは、銅鏡がいくら古いものでも、踏んだだけで割れるのか?という素朴な反論は避けられまい。2にしても前半はいいとしても、後半のリサイクル説は平原のように破片がちゃんとつながった類例には適応しない。3は論外。
銅が欲しければ全部持ち出せばいいし、「足がつく」とは、古代にどうやって?わけがわからない。現代の刑事か?この学者は。

結局どの説も桜井茶臼山だから出てきた仮説に過ぎないだろう。
破鏡には中国の歴史説話で夫婦や友人、恋人同士の誓いのしるしにふたつに割るという事例がある。
しかしこれも平原の巨大な鏡では大きすぎるし、ましてすべてのパーツが残っている鏡があるのだから、再利用もなかったし、ましてラブラブの印にペンダントにもなっておらない。http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2007-12/03/content_88421.htm

わざわざ鋳造した宝物を割ってしまうには、なんらかの呪力が期待されたと見るのが妥当ではなかろうか?
筆者の古墳の呪理論では、破鏡は、本来死者の再生を願うはずの銅鏡を割るとは「再生の阻止」行為であるとなるのだが、そうであるならば、平原の被葬者が本来の伊都国の実力者ではなかった・・・よそものだった・・・ことになりかねない。2~3世紀の平原の為政者がよそから派遣された人物だった?となると、古墓の木棺による埋葬方法や粘土の塗りこめがそれまでの古墓に類例がないということに合致するのだろうが。けれど木棺風習は平原以外にも古くから北部九州にはあったのだという意見もある。

結論は先に送ることにする。

■2 五枚目の破鏡のほかの部分はどこへ消えたのか?
そのヒントは青柳種信著「柳園古器略考」にあるのかも知れない。

 「 「天明年中怡土郡井原村に次市といふ農民あり。 同村の内鑓溝―三雲村との接界―といふ溝の中にて(中略)溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。あやしみ堀て見れば一ツの壺あり。其内に古鏡数十あり…」。青柳種信は、 1822(文政5)年に三雲村で三雲南小路遺跡が発見された際、 約40年前に隣村で見つかった井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行って、農民が保管していた鏡片などの拓本を残した。(糸島新聞2006年11月23日号)」
http://itoshima-np.co.jp/back/bunkazai/2006/bunkazai_04.html

どうやら住民によっていくつかの副葬品が持ち出されていた可能性が平原古墓にもありそうだ。

3南越はなぜ広東のような北部に墓地を持てたのか?

「嶺南地方は古来異民族の百越の活動地域であったが、紀元前221年、秦始皇帝が斉を滅ぼして中国を統一した後、嶺南地方の攻略に着手した。紀元前219年、始皇帝は屠睢を主将に、真定(現在の河北省正定県)出身の漢人である趙佗を副将に任命し50万の大軍を率いて嶺南地方を攻めた。主将の屠睢は住民を虐殺したことから頑強な抵抗を受け現地で殺害され、新たに任囂を主将に任命するなど、4年間に及ぶ作戦の結果、紀元前214年に嶺南地方を平定するに至った。平定後は嶺南地方に南海郡、桂林郡、象郡の3郡が設置された。任囂は南海郡尉に任じられ、南海郡の下に博羅、龍川、番禺、揭陽の4県が設置された。副将であった趙佗は龍川県令に任じられている。

紀元前210年、始皇帝が病没し、二世皇帝が帝位を継承したが、紀元前209年その暴政に対し陳勝・呉広の乱が発生し秦国内は混乱、やがて劉邦と項羽による楚漢の抗争となり、中国全土は混乱状態に陥った。このような状況下にあった紀元前208年、南海郡尉の任囂が重病となると、龍川県令の趙佗が郡尉の職務を代行することとなった。程なくして任囂が病没すると、南海郡尉に就任した趙佗は南海郡内の軍隊に対し中原の反乱軍隊が進入するのを阻止する命令を発し、同時に秦が南海郡に派遣していた官僚を粛清して、新たに自らの腹心を官僚に登用した。紀元前206年に秦が滅亡した後、紀元前203年には桂林郡と象郡を併合し、南越国を建国し、「南越武王」を自称した。

紀元前202年、劉邦が漢を建国し、中原を初め項羽の残軍勢力を平定した。この時中原は長年の兵乱により民衆の生活が困窮しており、経済立て直しが優先されたため、南越国に対し軍事的な行動がとられなかった。紀元前196年、劉邦は大夫陸賈を南越に派遣し、趙佗の帰順を迫った。陸賈の説得の結果、趙佗は劉邦の南越王印綬を受け、漢に臣服し、南越国は漢の冊封体制に組み込まれることとなった。これ以降南越国と漢朝は相互に使者を派遣し、交易を行なうようになる。劉邦は平和的に趙佗を帰順させることに成功し、南越国が漢の敵対勢力となることを未然に防止した。
紀元前179年、呂后が崩じ文帝劉恒が即位すると、漢は南越への軍事行動を停止して丞相陳平の建言に従って懐柔策に転じた。文帝は趙佗の祖先の墓地を整備し、墓守を置いて毎年の祭祀を行なわせたり、趙佗の兄弟に対しても官職と財物を下賜するなどして再度趙佗帰順工作を行なわせ、高祖劉邦の時代に南越との交渉に当たった陸賈を復職させ再度南越へ派遣して趙佗を説得させた結果、趙佗はついに帝号を廃し漢への帰順を表明し、再び「南越王」を自称するようになった。このときから景帝の時代に至るまで趙侘は対外的には漢朝臣下を称し、毎年春秋には使者を長安に派遣し皇帝の朝見を受けるようになった。しかし南越国内では帝号が依然として使用されていた。」
だそうである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%B6%8A%E5%9B%BD

南越は一時的に漢の重鎮の臣下だった時代があったため、あのような多大な副葬品を持つ王墓が造れたと。

そもそも南越王墓の鏡は、すべての副葬品の中では数パーセントに過ぎないのだが、その数はおどろくほどの数である。
このような鏡を好物とする風習は南越王と日本豪族だけの風習であろう。
そもそもが北方系民族の風習にはそのようなものはない。
なにゆえ、同じ趣味を持つのか?
南越人の為政者と日本の豪族になんらかのつながりはあるのだろうか?
想像におまかせする。

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