正月を前に壮大な妄想を思い描いている。
九州ツアーにも深く関わる古代阿曇の遼東対外交易である。

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●公孫淵と公孫氏燕国
Wiki「公孫氏 遼東」解説
「公孫氏は高句麗や後漢と争いながら、朝鮮半島の北端である楽浪郡や山東半島まで勢力を伸張した。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置くほどまでに至る。[要出典]父の代に半独立を果たした公孫氏ではあったが、衰退期にあったとはいえ中国の統一王朝であった後漢の存在は無視できず、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられている。

公孫康の後継にはその弟である公孫恭が即位したが、228年に先代で兄の公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が半ば崩壊し魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領とも密接につながる魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。 236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称した。翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に玉璽を与えるなどして魏を刺激し、いよいよ争乱は決定的となった。

公孫淵は一度は魏の幽州刺史の軍勢を退けたものの、238年、太尉司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲され、一族ともども滅ぼされた(遼隧の戦い)。公孫恭は魏への忠義を貫いたとして処刑されなかったが、子がおらず公孫恭の死により滅亡した。

『魏志倭人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる倭国大乱から公孫氏滅亡後の卑弥呼による魏への遣使まで倭に関する記事が途絶えている原因は、公孫氏が倭の勢力が中国本土へ朝貢する道を遮っており、倭からの朝貢は公孫氏が受けていたからと考えられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E6%B0%8F_(%E9%81%BC%E6%9D%B1)

●常世連(赤染氏)
『新撰姓氏録』は、「常世連」なる帰化人の氏族について、公孫淵の末裔であると記述している。この信憑性は不明である。仮冒であろうとは思う。しかし何らかのえにしが遼東にあったのかも知れない。一般的には常世連は新羅系ではないかとされて一応おさまってはいるようである。しかしそれもまた想定でしかない。
当ブログの常世連・赤染氏記事解説
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51684121.html

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●巫部連(かんなぎべの・むらじ)→物部真椋連 (もののべの・まぐらの・むらじ)
『新撰姓氏録』和泉国神別条
「巫部連(カムナギベノムラジ)、雄略天皇、御体不予、因茲召上筑紫豊国奇巫、今真椋大連率巫仕奉、仍賜姓巫部連」
大意
「雄略天皇の世に、九州豊前国から奇巫(巫医)を むかえ、真椋大連がこの巫士らを率いて天皇の病を救い奉り、その功により(豊国奇巫たちが?)巫部の姓を賜った」
と、雄略時代には「巫部」は名誉ある氏名だったことがわかるのだが、その後、
『続日本後紀』仁明帝の条には

「承和十二年秋七月巳未、右京人中務少録正五位下巫部宿禰公成、大和国山辺郡人散位従六位下巫部宿禰諸成、和泉国大島郡正六位上巫部連継麿、従七位下巫部連継足、白丁巫部連吉継等、賜姓当世宿禰、公成等者神饒速日速命苗裔也、昔属大長谷幼武天皇{○雄/略帝}公成等始祖真椋大連奏、迎筑紫之奇巫、奉救御病之膏盲、天皇寵之賜姓巫部、後世疑謂巫覡之種、故今申改之。 」

とあって、後世になると巫部氏 そのものが巫覡(ふげき・かんなぎ)の類いと疑い見られるようになったため、自己申請を認めて改めた、という内容である。つまり次第に巫覡も低俗化し、巫女が食いつなぐために、ちまたで遊女まがいの行為を行うようになったために巫部氏たちがそれと間違われるのを嫌がって、姓を改めたいと申し出てこれを許されたようである。しかしながらなんという氏姓に変えたのかが書かれていない。
明治時代になって “巫部(かんなぎべ)神道”と教派神道十三派の一つ「神理教(しんりきょう)」が出現し、巫部氏は「日月家」「佐野家」と名乗ったと言われてはいるようだが・・・。
http://ooinarien.web.fc2.com/inariy-site/yaoyorozu/index5.html
http://www.sinri.or.jp/page/rekisi.html
佐野は「さのの・みこと」=神武とか宮崎県の地名に因んだ自称であろう。
こういう神道系の出自や自称に関しては立ち入り難いものがあるので、何とも言及しようがない。

史書が書き残したこうした曖昧模糊とした「いわれ」は、当然「巫の最初」と受け取られることになろうから、そこに神道系が末裔を名乗る正統性の強い味方になっただろう。明治時代はそうした新興宗教が乱立した時代なのでこれ以上詮索しても仕方あるまい。

まずもってわからないのは巫部を名乗ったのが豊国から来た奇巫(くしきかむなぎ・あやしきかむなぎ?)なのか、それを率て来たという筑紫物部氏の真椋大連だったのか、あるいはどちらもなのかがわからないでいる。『新撰姓氏録』の書きざまが読み取れないのだ。どちらにしても河内物部氏が守屋以後滅んで、その中心は筑紫物野部に移っている。筑紫(竺紫)物部氏の始まりは継体大王のときの麁鹿火からであるから豊前地方も当然筑紫物部氏の勢力圏内で、真椋が豊国奇巫を率いてきたわけは納得行く。

ちなみに磐井の乱に当たって継体は麁鹿火に「長門より東は自分が、西はおまえが取れ」と言っていたわけで、すると豊はどうなったんだとなるわけである。森浩一などは関門海峡の九州側にある門司(豊前国)が対岸の下関(長門国)側をも管轄していたのではないかとしている。豊から西が物部氏の管轄地になったと見られる。するとこの場合の筑紫物部氏の筑紫とは九州島を指すとなろうか?不明。

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●常世連と物部巫部の関係は?
こうして見ると常世連は遼東の公孫淵を祖人と考えていて、一方巫部連の方は豊国奇巫から始まるのだが、どちらも巫医であったことがわかる。巫部が物部氏を名乗るのは豊前での管理者真椋大連との流れであって、そもそもは物部の血筋ではなかっただろう。その本当の出自がわからない。




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