厩戸皇子墓所
『日本書紀』の記述
「推古29年2月5日、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨ず。上宮太子を磯長(しなが)陵に葬る」
これを根拠として大阪府南河内郡太子町(旧磯長)の叡福寺境内の叡福寺北古墳に『聖徳太子御廟所』が置かれた。

もちろんこれはウソであると言われている。

九条家文『天王寺事』(鎌倉時代)
「聖徳太子御墓,治安4年6月14日記云,右御墓所古今雖奉尋,乎今楢所不知也」
意味は聖徳太子墓がどこだったかわからない、と書いている。

叡福寺北古墳=聖徳太子磯長陵内部には、中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。この「乾漆製棺」も曲者である。その技術は鎌倉時代のもので、おそらく平清盛あたりが参詣しているから、そのときにでも造作したのだろう。また『日本書紀』は聖徳太子御廟(磯長陵)に埋葬されたのは 太子一人と記録しているにも関わらずここには三人の棺がある。

『日本書紀』が言う「磯長陵」とは敏達や孝徳の墓をも指しており、どこと決められたわけではない。
また「上宮太子」や「厩戸豊聡耳皇子命」つまり聖徳太子の呼称は『日本書紀』編纂以降に登場してくる聖人名で、藤原不比等の創作した名前。

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