■的臣(いくはの・おみ)・・・その名のとおり弓矢の的をトーテムとする氏族であり、その居住した地域は生葉(いくは、今の浮羽郡)から日田盆地かと思われる。この生葉という旧地名が問題の木の葉線刻となんらかの関わりを感じさせる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/folder/1605207.html?m=lc&p=2

大分県玖珠町鬼ヶ城古墳。
ここの線刻には”生葉”が描かれる。


「いくは」とは照り輝く照葉樹の葉を聖なるものとしたという意味と、弓矢の的という意味がある。
筑紫浮羽郡の元になった「いくは」は、生命の再生への強い望みが表されている。
その照葉樹が、果たしてクスノキか椿かはしらねども、この町の地名は玖珠(くす)である。

山道をあがらねば行きつかぬ。
高速大分道の測道の、見落としそうな森の中にそれはある。

玖珠の街中にもうひとつ、鬼塚古墳が、民家の庭に、何か当たり前のようにちょこんとあって、そこの石室に赤い円紋が描かれている。これが的臣(いくはの・おみ)が来た証拠となっている。
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そもそも的は「まと」であり「いくは」となった理由は、おそらく生葉を聖文としていたからであろう。それが「うきは」と訛っていった。

円紋は的でもあろうが、ヘビの目であり、魔よけである。

玖珠から今の浮羽郡へ筑後川を下ると福岡県の日ノ岡古墳に行き当たる。
ここもさらに円紋が描かれていて、石室全体がヘビの真っ赤なうろこでおおわれている。
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隣接する神社に月の岡古墳があり、阿蘇凝灰岩製の灰色石石棺が無造作に置かれる。
日と月の、氏族にどのような違いがあったのか?
Kawakatuが解説させていただく。


すべての旅はここから始まる。

ここから南九州人吉まで、狗古智卑狗と四世紀の・・・つまり邪馬台国が出ていってしまったあとの筑紫の時代を、すべてあなたにお見せしよう。

日下部・靫負・的臣・靭編に惹かれるように・・・・そしてあなたはいつか狗奴国に立っていることだろう。そこには邪馬台国移動の真実が隠されている。



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