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◆漢委奴国王印について論じている文献
1 三宅米吉「漢委奴国王印考」『史学雑誌』、1892年(明治25年)。
三宅米吉は「奴」は儺津(なのつ)・那珂川の「ナ」で、倭の奴国を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定した。
2 『藤貞幹考』、1784年
3 『漢委奴国王金印之考』、1785年
4 『後漢金印略考』、1812年
5 『黒田新続家譜』、1844年
6 久米雅雄「金印奴国説への反論」『藤澤一夫先生古稀記念古文化論叢』、藤澤一夫先生古稀記念論集刊行会、1983年、大谷光男編著『金印研究論文集成』、新人物往来社、1994年
7 王育徳「中国の方言」方言史『中国文化叢書1 言語』 大修館書店、1967年
8 坂井健一『魏晋南北朝字音研究―経典釈文所引音義攷』 汲古書院、1975年
9 久米雅雄『日本印章史の研究』 雄山閣、2004年
10 久米雅雄「国宝金印『漢委奴国王』の読み方と志賀島発見の謎」『立命館大学考古学論集 IV』 立命館大学、2005年、55-68頁
11 久米雅雄「国宝金印の読み方」『月刊書道界』2009年8月号、藤樹社
12 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館、1994年、87頁
13 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館、1994年、88頁
14 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館、1994年、52-54頁
15 三浦佑之『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』 幻冬舎新書、2006年 ISBN 4-344-98014-X
第267回活動記録、邪馬台国の会、2008年3月30日
16 宮崎市定『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』 中公文庫、1992年、18頁 ISBN 4-12-201869-2
17 鈴木勉『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』 雄山閣、2010年、ISBN 978-4-639-02117-2
Wiki「漢委奴国王印」脚注より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0

その他 志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑、asahi.com、2007年3月3日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200703030225.html

◆奴国王ではなく伊都国王?
「三雲⇒井原鑓溝⇒平原遺跡など大量の鏡を伴う紀元前1世紀頃~後3世紀頃にかけての王墓が伊都国(糸島市付近)に集中していること、『魏志倭人伝』を読むと伊都国には「世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」と歴代複数の王の存在が明記されているのに対し、奴国には王の存在を示す記事、あるいは「かつて奴国に王あり」といった記載がなく、中国は伊都国王を承認の王としていること、印学的には蛮夷印の印文の構造は基本的には「宗主国+国名(もしくは民族名)+官号」(+修飾語)から成り立っており「漢の委の奴の国王」のように「宗主国+民族名+国名+官号」の構造を持つ印章は見られないことなどを綜合して「委の奴」国説は成立しえないとする見解である(久米雅雄「晋率善羌中郎将銀印及周辺歴史之研究」『国際印学研討会論文集』(中国・西泠印社、2003年))。」

この説は難しい。
奴国は博多の那珂川の東側であることは最新考古学から明白で、伊都国は西側になる。その埋葬形式は明確に違う。伊都国側からは甕棺葬だが東側奴国からは周溝墓。したがって旧那珂郡にあった志賀島から出た金印であるならばまず奴国王と読み取るのがよいだろう。
まして光武帝の時代は邪馬台国時代とは150年も古い。魏書を持ち出すことはうなづけない。



◆真偽判断のポイント
1 中国金印との比較
 ● 滇王之印(1955年発掘)
  「その寸法の形式から明らかに漢印であり、『史記』西南夷列伝の、武帝が元封2年(紀元前109年)   に滇王へ王印を下賜したという記事に対応する。」
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「西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡で出土した漢委奴国王印が形式的に同一であることを指摘しており、両印ともに蛇鈕であり、その年代は紀元前109年と57年というおよそ166年の隔たりがあるが、ともに外民族の王が漢王朝に冊封を受けたしるしであったとしている。」

 ● 廣陵王璽(1981年発掘)
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 「西嶋定生は廣陵王璽金印は箱彫りで漢委奴国王印は薬研彫りであること、志賀島の金印の綬色は紫綬であるのに対して、廣陵王璽は「印」でなく「璽」とあることからその綬色は赤綬か綟綬(レイ:緑色)ではないかということを指摘した上で、蛍光X線分析による元素測定が待たれるとした」
解説はいずれもWikiから

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2 蛇鈕
 蛇のつまみを持つ金印は今のところ滇王と倭の奴国王のものの二つだけである。
 もし奴国王のものが偽物だとした場合、ではなぜ蛇の鈕を偽造者が思いつくかが問題になる。
 偽物説諸説が言うように江戸時代くらいに可能な偽物とするのならば、江戸時代の研究家が当時の倭国 への金印に蛇の鈕をつけたことがどうやってわかったかを証明するべきである。          


 滇王印が出土したのはつい最近のことなので、当然、江戸期の人が知るわけもない。
 なぜ倭国には蛇だったのか、など記録のどこを調べても出てくるはずがない。
 まずこの事実だけでも漢委奴国王金印偽物説は難しいといわざるを得ない。
 ましていかに印章コレクションブームだった江戸期といえども純金(22.4K)の加工品を作るには 大金がかかる。一個人では無理で、儒学者・亀井南冥を偽物製作者とは決め付けにくい。ありえるとす れば当時の黒田藩かとなるのが普通。しかし、いったい奴国の場所はすでに当時から福岡県奴の津(博 多湾)周辺(正確には那珂川の東側が奴国)であることは決まっていたと考えられ、わざわざ金印を作 成して隠す意味がつかめない。百歩譲って国学隆盛時代に、大和学派の「委奴国=倭国=ヤマトと読  む」説への福岡黒田藩おかかえ学者の反抗とすることは可能だが・・・。



3 文字の彫印手法と成分分析
金に使われた金の詳細な分析からは中国産の金であろうとされている。
また密なる刻印手法分析は鈴木勉の著書『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』に詳しい。
鈴木は「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」は同一工房で作られたという説を、精密な刻印法比較で否定しているが、それははっきりと見た目からも相違は見えており、正しいだろう。
「また、安本美典は偽物に「倭」ではなく「委」を使用するのは不自然とする。また同一工房で同時期に「廣陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が製作されたとして
辺長が、後漢時代の一寸に合っている。
鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様は、同一の鏨(たがね)によって打ち出されている。
文字は、Ц型とV型の箱彫りに近い形で彫られ、字体もよく似ている。
を指摘し、偽造説を退けている。」(Wiki)とし、
「宮崎市定は著書『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』で、同僚の中村直勝[31]から、金印の真物が2個存在する事を聞かされたと記している」(Wiki)のだが、
鈴木の細密な分析から言えることは、真偽の結論は科学分析による中国での金印使用金成分の分析を待つしかないのだということである。




◆なぜ「親魏倭王」金印ではなかったのか?
もし漢委奴国王金印が偽物だとして、ではなぜもっと重要だと考えられる卑弥呼の金印を偽造しなかったのだろうか?不思議である。

とにもかくにもこの金印の真偽を今論じても水掛け論であることになんの変わりもない。
鈴木がいかに科学的に分析し「結論を導く」ための科学的な比較と書いたところで、結局は成分分析が中国産金を証明してしまえば、真偽論そのものに結論が出るはずである。

◆いずれにせよ一級考古学資料ではない
伝・志賀島出土のこの金印は江戸期発掘後、黒田家から福岡市歴史博物館へと保管されてきた伝世物で、現代考古学の発掘遺物ではないということから一級考古資料ではない。いかに明治政府が国宝指定したと言えども、実は国宝の多くが同時に一級考古資料にはならないのだ。
まして魏志の奴国が平原であろうこと、那珂川の東側であることはすでにほぼ確定してしまっていて、反論するものがない状況である。金印の真偽を水掛け論でうんぬんすること自体が、現在の時間枠ではふさわしくないことになろう。そもそも金印があってもなくても、伊都国・奴国の位置論はもう動かないのである。

◆金印は二個ある?!
「私がこの金印についての意見を(中村直勝教授に)求めると、教授は事もなげに、「あやしいな。なんせ、ほんま物が二つもあるんやで」と答えられた。金印の真物が二個存在するとは、聞きずてならぬ発言のようだが、ただし、それなりの理由があることは、私も後になって分かった。昭和五十五年八月、京都高島屋において朝日新聞社の主催により、「邪馬台国への道」展が催されたが、その折の注意深い観察者ならば、なにかしら、はてなと気づくことがあったはずである。ただ現今の私としては、これ以上にはなにもいい足すことはできない。」宮崎市定『謎の七支刀』(中公新書)6P
どうもこういうことを宮崎が書いた理由は「金印偽物」を言うための前ふりではあるまいか?
すでに死んだ者の言葉を用いること自体が眉唾であるというしかない。このような思わせぶりな書き様をして見せたこと自体、作り話だと思うしかないのではないか?
主催者の朝日新聞が本物の金印展示を断られて展示会用に一個捏造したというのなら、なるほどとうなづける。アサヒならやりかねまい。こうした人気のある遺物展示会は多数開かれるから、展示会用の金印が保険として作られていたとしても不思議はない。
「ほんま物」=真物が二つあると鑑定の専門家である故・中村が言った・・・それこそ「あやしいな」と感じる。
ただし紛失の可能性が高い小さな品物のコピーを過去の王が作ったというのは十二分にありえる話しだ。

なんにせよ金印偽物問題についてこれ以上論ずるつもりはない。
偽物であろうと、二個あろうと、国宝であろうとなかろうと、そんなものを今、論ずること自体時間の無駄であろう。マニアのコメントもTBも受け付けない。
あってもなくても奴国王がなにかしらの形の印章を印綬したという記録にある事実に、なんの変化も生じない。

なにかと話題になっている高価な金だから、読者も興味深かろうと思っただけである。

◆金印は封泥に使う
ちなみに金印はいわゆる書類につくはんこではなく、封泥に用いるそうである。
封泥 ふうでい→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54235582.html


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