◆卑弥呼がもらった五尺の刀
「汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。」(『三国志』東夷伝倭人条)

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下が吉野ヶ里、上が鳥取県宮内

「「魏志倭人伝」では「五尺の刀」と出てきます。魏の一尺は二三センチ余り、五尺ですと一メートル二〇~三〇センチになります。
二世紀終わりから三世紀の長大な刀は、ツクシでは伊都国である福岡県前原(まえばる)市上町(うえまち)遺跡から出ています。また同時期の日本海沿岸の福井県永平寺町乃木山(のぎさん)古墳、鳥取県湯梨浜町宮内遺跡からも一メートル前後の刀が出ています。
 奈良県からはまだ出土しておらず、近畿地方では唯一、大阪市東淀川区崇禅寺(そうぜんじ)遺跡から、長いと推定される刀の握りの部分だけが出ています。」
『研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか』所収 石野博信「「邪馬台国異九州説はありえないか」より

崇禅寺遺跡はかつての河内潟の入り口部分に位置している。しかし、握りだけでそれが長大な剣だったという考え方はいかがなものかとも見える。これでは確実な証拠品にならない。

石野博信は纏向遺跡=邪馬台国説の立場での分析で有名な学者でもある。

弥生時代の鉄に関しては圧倒的に九州の数が群を抜いていることは誰にも否定できない事実だが、1メートルの鉄剣でもやはり北部九州という結果になる。
画像は吉野ヶ里から出た素環頭太刀(そかんとうたち)と鳥取県宮内第1遺跡出土太刀。


思うに畿内の鉄器がまったく出てこないことはやや異常であろう。もしや簡易製鉄で軟弱な鉄器しか作れなかったのではあるまいか、とさえ思えてくる。また大陸からもらったものすら出てこない。鳥取など日本海で出るものが畿内で出ないということは、まだ中国と畿内に充分な相互関係がなかったとも見えてくる。ところが天理市の和邇氏の東大寺山古墳からは1世紀の中国あるいは北東の燕国とのえにしを思わせる中国年号入り鉄剣が出て来てもいる。邪馬台国畿内説を取るならばこの和邇氏と大陸の関係を充分に証明するほかの遺物の後押しが必要である。

最近の九州説では吉野ヶ里のある筑後川河口部にあったという説が主流である。高島忠平は吉野ヶ里遺跡は3世紀こそが隆盛期であると言っている。環濠集落や絹織物、鉄剣から見れば吉野ヶ里はもう一度見直される必要性があるのかも知れない。


狗奴国であろう熊本県が二位であることにご注目。
圧倒的な北部九州と戦えた地域は熊本県中南部だけなのだ。

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一方、邪馬台国・・・女王国をメインにしたこれまでの論考を、狗奴国という視点から考古学してゆくトライアルも必要だろう。
森浩一が好感を持った在野の狗奴国研究家・菊池秀夫(ペンネーム久々知武)の昨年の著書『邪馬台国と狗奴国と鉄』はオリジナル資料も図説も多く、南九州の製鉄について詳細に調査している。
一昨年だったかメールをいただき、九州での同行と案内を示唆されていたが、生憎忙しく断ったことがあり、今思えば残念だった。
次回、彼の図説を中心に狗奴国東遷説について語ってみたい。


邪馬台国、筆者の最新候補
1 狗奴国東遷大和乗っ取り説
2 筑後川河口部説
3 纒向説
4 記紀記述神武正論、西都原説・・・西都原古墳から纒向よりも古い日本最古の古墳らしきものが2005年に出ている。西都原81号墳
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2005/05/19001238/

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