継体大王にせよ、信長にせよ、河内王朝歴代倭王にせよ、物部本宗家にせよ、紀氏にせよ、軽皇子にせよ、なにゆえに堺や難波や紀ノ川河口や淀川沿線に都や本拠を置くかと言えば、これはもう東シナ海でつながる対外貿易のためであり、それは国益にかなった首都機能としては、世界的に見ても当然の行為であろう。

しかるになぜ飛鳥や大和や山背や近江などなどの山奥の盆地が、あとになるほど首都になっていくのか?
それはみな外に向って背を向けた日本の現代におよぶ官僚政治の根幹、始まりであると言っていい。そこには対外貿易で利潤と外貨を稼ぎ、国民に利益を還元し、少しでも税金搾取を和らげようといった国際政治の性格は微塵もなかったという証明なのではなかろうかと見える。

その飛鳥以降の大和政権のへたれ腰の前には邪馬台国の巫女祭祀による引きこもり巫女の黒魔術政治があったことも忘れてはならない。およそこの国では藤原政権下平安時代や江戸幕府のごとき引きこもり時代が長く続き、世界の現実に背を向け、内需内需と平民から油を搾り取るがごとくに税をむしりとって生きながらえた「貪り政治」が、その3万年の歴史年表の後半部分すべてを占めている。このような類例は東アジアでは中国もそうだった。4000年の大半をいくさであけくれ、まったく安定政権を作りえなかったのが中国の「知ったことか」という国民性を「育んだ」。

つまり信長が日本人に異形の人としてヒーロー化してきた背景には、世界的には当たり前の政治、政治家を、日本人一般が異常なことをした人・・・場合によってだが、それを英雄のような特殊人物と捉えるという、それ自体、外国から見れば当たり前のことが価値観を持っているということなのだ。

一方、卑弥呼や聖徳太子の人気は、神秘性である。
ところが二人とも実際には対外的にはグローバルで、実益を考えることのできる信長タイプだった。太子についてはもちろんその政治は蘇我氏のやったことであり、太子そのものはあとから聖人にされてしまったに過ぎないのであるが、卑弥呼は実在の人物である(と思いたい)。

中国の史書である『三国志』の中にある倭人伝も、史書の性格上は魏を賞賛するために書き込まれたと考えるのが常識であるという立場に立てば、邪馬台国や卑弥呼が実際にはどう三国の争いに対峙したかはわかりはしないのであろう。呉が熊襲やら五島・久米らを遠交近攻の相手と選んだとしたなら、女王国との争いは相当の苦戦になったはずである。

大和の真ん中にある黒塚古墳からは幾多の神獣鏡が出てきたが、様式から言えば倭国造の誰かの墓ではないかと思える。つまり海人族・椎根津日子の子孫である。摂津の紫金山古墳の被葬者も九州海人族であろう。播磨灘の五色塚もそうだ。黒塚の被葬者が倭国造であるなら、なにゆえに不便な大和に入ったのか?
住之江から大和へ入るには、淀川で枚方まで遡上し、木津川で大住に南下して、北周りで南下するという実に遠回りなコースが主流だった。息長氏が開発してきた淀川ルートを南下して琵琶湖から新羅を目指したと描かれたのが息長と葛城の血脈の神功皇后である。

琵琶湖のような奥地であっても、淀川さえ使えば瀬戸内へ出られ、奥地にいてもちゃんと政経は成り立つ。しかし飛鳥や大和には山の要害にかこまれた山城の機能しかない。大和川などはなんの役にも立たぬ通行不可能は川である。

大和や平安京は国の引きこもりが、外の世界を畏れて、迷信や陰陽道にひたりこむには最適の場所だったことだろう。日本はそういううっちゃった国づくりで歴史時代の大半をニートしてやり過ごしてきた。まるで冬眠していた清国のようだ。百済にもらった仏教と漢字だけで明治時代までやり過ごせたというのが驚きである。

ランキングクリックにご協力ください!!m_ _m↓

押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・