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◆弖豆久利(てづくり)
多麻河伯爾 左良須弖豆久利 佐良左良爾 奈仁曾許能兒乃 己許太可奈之伎

多麻河に 曝す弖豆久利さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき  『万葉集』巻十四東歌 3373

詠み方
たまがわに さらすてづくりさらさらに なんぞこのこの ここだかなしき

大意
多摩川にさらして流す手作りの布地 今布を流しているこの子のなんといとしいことだろう
「この児」「愛しき」には親子説と恋人説があるが、「この児」という表現は子ども。恋人や行きすがりにあこがれた乙女なでの場合は普通、「妹=いも」が使用される。また「愛しき」も「かなしき」と読ませていることから、「かなしき」はわが子への情愛とここでは判断した。ただし、相手が女性のほうが確かに韻文らしい情緒は出るかも知れない。判断は自由。
しかしながら「手作り技術」の一子相伝というような歴史的意義を重視すれば、教えた子や孫が教えどおりそれを伝えていくという様子を、詠み手である父や翁の「ああ、これでもう将来まで技術が伝えられるわい」という安堵感も捨てがたい重みがあるだろう。



「多摩川に架かる京王相模原線の鉄橋近くの調布市多摩川五丁目に東京調布ロータリ-クラブの建てた万葉歌碑がある。二首あるが向って右がかの歌である。」



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◆手作り
この歌が言う「てづくり」という言葉が、万葉集当時、東国の布を指していることを知っておきたい。
今に残る友禅流しなどで有名であろうが、布は河の流れに晒して完成する。
東国の布地は畑作でとれる苧麻(あさ、からむし)などの植物繊維で作る木綿・麻(ゆう・あさ)と、桑と養蚕で採れる絹布(けんぷ)がある。いずれも繊維を紡ぐのに、東国一帯から多く出る紡錘車(ぼうすい・しゃ)を用いる。紡錘車は糸を巻いて束ねるときに使う手回しの器械であるが、考古学発掘で出てくるのはそのベアリング部分の石などで出来た丸い器具。これを紡錘車と呼んでいる。実際には紡錘車の部品である。
この部分だけが石や金属なので、ここだけが残って出てくる。

「手作り」はやがて手で作られるすべての道具・品目に付随する「売り言葉」になって今に伝わるが、その生まれたのは万葉集成立以前と非常に古い。中でも、当時はほとんどの道具や製品はみな手作りが当たり前なので、関東の布に限っていちはやくこの言葉が品名のように使われたのには、深い意味合いがあるだろう。



◆機織りは念呪
いつも書くことだが、それは呪がそこにあるからだろう。
籠を編む、組紐をなう、布を織るなどのもくもくとした行為を、いにしえのひとが呪と感じた。
つまり「手作り」という言葉の言霊は、やはり呪であろう。

◆かかあ天下と空っ風
関東、群馬では「かかあ天下と空っ風」なる慣用句が残っており、県を一言で言い表わす表現でよく用いられる。「かかあ天下」とは女房=女性が強いという意味である。そのもともとの意味は、養蚕や機織りが女性の仕事だったからである。その製品は献上品として一家の家計の大半を稼ぎ出す。関東ではつまり旦那の出番は少ない「髪結い亭主」状態であって、夫は嫁に頭が上がらなかった。夫は布を持って商売の旅に出て売り歩き、めったに帰ってこれなかった。

麻苧らを 麻笥に多に 績まずとも 明日きせさめや いざせ小床に

あさおらを おけにふすさに うまずとも あすきせさめや いざせおどこに  東歌3484

◆麻苧は苧麻のこと
◆麻笥は商旅用の、麻布を入れた入れ物
◆「績まずとも」とは「もう紡がないでいいじゃないか?」
◆「いざせ」は「いざって来い」である。「いざる」とはずるずるというような格好。最近まで片足などを指した。→「びっこをひく」ともに今は禁語
あるいは「いざ、来い」かも知れない。

◆小床は布団

大意 
そんなに布を紡いで織ったって、箱を一杯にしたって、今日明日に着るものでもなく、すぐに金には代わらないんだから、そろそろ切り上げて、早く布団に入ろうよ。

つまり、夫ががんばっている女房を、おそるおそる床に誘っている様子である^^

長旅からたまに帰っても、強いかかあになかなか「しよう」と言えない恐妻家亭主の悲哀が滲んでいる。

◆麻は東国
『古語拾遺』にはこう書かれている。
「麻は阿波国(徳島や兵庫県淡路島)で栽培が始まったが、その後東土に好(よ)き麻の生える場所を求めた」
どうやら東国最初の場所は総国(下総・上総現在の千葉県、茨城県南西部の一部、埼玉県東部の一部)であったようだ。
上総・下総の上下二国を合わせると献上布の総量は常陸を上回ってダントツである。

総は「ふさ」であるが、国名の由来は二説ある。
ひとつは、総の文字が麻の旧字体と同じだったことから。あさ=ふさ説。
もうひとつは国の形が糸を束ねて垂らした房の形に似ていたから説。
しかしそれなら安房のふさと重なってしまう。
安房は阿波からの移住者由来、あるいは主要生産物の粟からか?
Kawakatu的には「ふさのくに」は呉王夫差由来かな?


◆調布・庸布・麻布(ちょうふ・ようふ)
東京の調布・麻布はもちろん献上する布を作る地方だったという証拠が残存している古代地名。つまり銀座地名より数百年も古い。
税に出す布には規格があって長さ二丈六尺(賦役令)。
一方、生産者が一般人や問屋に売り歩く布が商布(しょうふ)である。
ふたつ前の記事に貼り付けた『延喜式』国別産物一覧の東国その他から、商布の産地では日本一だったのは常陸国である。順に上総(茨城)、武蔵(東京・埼玉)、下総(千葉)、上野(こうづけ、群馬)、下野、相模(神奈川西部)、安房(房総南部)となる。関東以外の献上量の多い科野、甲斐、駿河、越中、越前のすべてを合わせても常陸一国の献上量に届かない。それほど関東=布だった。

理由はもちろん関東ローム層が水田に向かなかったからであり、とにかくごろごろと大きな石が出てくる土壌だった。水田がないので耕作用の牛が来なかった。だから渡来人が持ってきた養豚技術がその排出物を肥料として使うしかなくそれが発達した。

◆相模の漆部伊波(ぬりべの・いわ)
東大寺の大仏殿建立にさいし、商布二万端(段)を朝廷に献上。外従五位をもらった。二万と言うと、献上量トップの常陸の年間量を大きく上回る常識はずれの献上である。これは太秦の秦酒公以来の大献上記録である。
これで伊波は相模一の大豪商となった。
平城京に相模国調邸(つき)があった。ここを拠点に物産販売を拡大。今で言えば県事務所を私費で持っていることになる。東側に運河まであって、すぐそばまで船が着けられた。すごい実業家である。
結果、伊波は宿禰を与えられ、相模国造にまで出世する。
もちろんそのバックにも、故郷相模のかかあ天下があったのである。

正直、嫁にするなら関東一円の農家から選ぶのが、ずぼらがしたい野郎には最良の方法だったと見える。
養子になるなら北関東、南関東。

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