前の上毛野緑野屯倉の記事で、奈良時代前後、日本では新羅を胡「こ」、百済を呉「くれ」と呼んでいたと書いたが、これは日本人から見た、半島の人種的相違の把握でもあったかもしれない。

つまり新羅は、中国が言う胡人のように西アジア遊牧騎馬民族の血を引き、一方百済や伽耶は、海岸線に海人族=中国が言う倭人であるが、が多かったということになろうか?中国南部の呉越などと同類と見ていた可能性もある。


実際、新羅や高句麗はもともとスキタイ・ツングース系の遊牧騎馬民族がステップロードで先土器時代に来ていた、つまりのちの匈奴とか、今、中国北部のスキタイ系自治区の白人種的な遊牧や商人で形成された可能性がある。高句麗には3世紀前後に北方系中国人も侵略して来ているのでこれがまざっているか?また百済・伽耶はもともと倭人種の多いところで、長江流域からも黄河文明に押し出された南部系長江民族の血脈が流れ込み、日本の縄文系倭人と同じオーストロネシア海人系族との混血が起きた可能性は大である。

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