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◆倭人=白水郎(あま)族
五島列島、壱岐、沖縄で考えた場合、どうしてもそのウシを弥生の早期に島々へ大陸から運べたのは隼人などの白水郎であろう。五島、甑島などには五島隼人、甑隼人らの記述があり、古くから貝輪交易ルートができていたのだからまず間違いない。
水耕栽培が全国的に(関東だけ地層があわず遅い)定着する弥生後期から古墳時代までには農耕牛は転々と輸入されたことだろう。

◆陸・水稲作も白水郎が持ち込む?
水耕稲作そのものも、筆者は、魏志が書く「倭人」=白水郎と見ており、魏志倭人伝はあきらかに倭人伝であって倭国つまり日本全体の記録ではない。なぜそうなるのかといえば、もちろん玄界灘沿岸全域にいたのが白水郎族だったからにほかならない。稲作を持ち込んだ人々は実は縄文陸稲も弥生水稲も同じ人々だったとすら思えてくる。これが長い大陸交流によって中国南部大陸人と混雑種したのではないか?

◆会稽東冶までちょっとひとっぱしり
五島列島から東シナ海を少し北西にいくと済州島(チェジュド)がある。6世紀くらいから玄界灘の海人族は朝鮮西南岸の島々を漁業基地として契約していた記録もある。これらの島伝いに東シナ海に出て、渤海湾から噴出してくる海流に乗って西へ航路を取ると会稽東冶の舟山群島にいきつくことができたと見ている。いわゆる呉越の土地である。そこですでに交流(南海産宝貝貿易)があったからこそ、風習、伝承、物品の流通が生じ、さまざまな古代史の矛盾や謎が解けていく。血の交流もあっただろうし、民間信仰なども相当早期に筑紫に来ていたことだろう。

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隼人の呉太伯子孫伝承や刺青、海中での魔除け風習、フンドシの類似などが氷解する。
小舟交易の広大さ、古さをあなどってはならない。

◆尾張で海部氏に
どうやら列島の海人族地帯を見て回れば、彼らがやがて日本海では出雲・若狭、太平洋側では尾張・三河から静岡・神奈川・千葉・鹿島から宮城・岩手まで拡大しながら物品や文化を広め、東海系土器や方墳文化、葬送文化を持ち込んで、「日本の均一化」の基礎を作った気配が濃厚である。

◆曹操のじい様の墓に書かれる?
3世紀の曹操の先祖の墓に「倭人は援助に来るのか?」と書かれた、その倭人もおそらく彼等だろう。
つまり、弥生人のすべてが渡来人で構成されていたかのようなこれまでの考え方は全部破棄するほうがいい。倭人とは南海・西海の縄文からの海人族だったと見たほうがよいだろう。

◆近畿で南北の出会い。日本人均質化に貢献
では渡来系中国南部人はどこへ行ったのか?あるいは隼人たちとともに海人族を構成し、はやくから近畿地方に入り込み、土蜘蛛などと書かれた北方系縄文人たちと混血して人種の均質化にも貢献したことだろうし、熊野から東海の尾張氏に加担し、海部を構成し、やがて中央にもナビゲーターとなって君クラスになっていったものもいたことだろう。南の縄文と北の縄文がこうして均質化してゆく。

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◆邪馬台国構成員も白水郎?
では邪馬台国の構成人員も白水郎か?
鬼道を駆使したと書かれているのが、どうも道教が中国で成立する以前のシャーマニズム、大地母信仰だったのではないかと思えるので、おそらく卑弥呼もそういう白水郎のシャーマンだったかもしれない。
そういう部分はどことなく大隈隼人の9世紀に乱を起こす女酋長や、沖縄、奄美に残る女性シャーマンに似ている気がする。そもそも女シャーマンを酋長にすることじたいが、大地母信仰ではないか?

◆ひめこじゃないよ、ひみこだよ
一方、その南にあったとされる狗奴国の王は男で、卑弥弓呼(ひみここ?)と書かれていて、どちらもこれは姓名ではなく王としての役職名だろうと誰もが考えている。しかし卑弥呼の読み方は「ひみこ」でないと男王・卑弥弓呼の呼び方が決まらなくなる。古田武彦などのように「ひめこ」と女性を前に打ち出して決めると、まったく同じ表記を使われる男王のほうもじゃあ「ひめここ」か?となってしまう。だからあれは「ひめ」ではなく、とりあえず性別に無関係の「ひみ」としておくのがよいだろう。「日の御子」とでもいう意味か?
「弓呼」をどう読むのかわからない。

◆たりし、たらし
ちなみに「たりしほこ」だが、
「たらし」とか「たりし」という人名?はやはり王族という意味だろう。「帯」「足」などとあとから表記しているが「たらす」「たりし」でよかろう。
聖徳太子らしき?日本の男王は『隋書』で「たりしひ(ほ)こ?」である。
また熊本の葦北国造は「火(肥)の葦北国造刑部靫部阿利斯登 ひの・あしきたの・くにのみやっこ・おさかべ・ゆげいべ・ありしと」である。
また鹿児島から宮崎南部にかけて代々国司で、藤原広嗣の反乱に加担し、降伏した曽於の君の中には
「贈唹君多理志佐(ソオノキミ・タリシサ)」がいる。

つまり弥生時代にシャーマン王は「ひみこ」あるいは「ひみここ?」だったものが、飛鳥時代には「たりしひこ」に変わっていることになる。其の前の倭五王時代は「おおきみ」だったはずだ。弥生時代にはそのほかに「みみ」とか「ひなもり」とかあったが、おおきみもたりしひこも、まったく弥生時代には存在していない。
こういうところから、どうも邪馬台国と畿内王権には脈絡がない気がし始めている。狗奴国が吸収して尾張氏の大王が崇神ではないか?
それが物部・海部などに支店経営。
その原始王権がまた誰かにとって変わられたのではあるまいか?
それが倭五王たち。それが継体以後、再分裂し、手白髪皇女の子・欽明からが蘇我王家。
つまり大和はむしろ狗奴国ではないか?^m^Y

◆纒向は崇神の都
『日本書紀』には同時代の女王など書かれていない。
それだけでも纒向には邪馬台国の資格がない。あれ以降鳴かず飛ばずが続いてきたが、結局出てきたのは朱塗りの木材と吉備のシンボル直孤文と、全国で珍しくない東海系土器の山と、そして穴師山などの地下に張り巡らされた「水垣宮」を裏付ける水路。これ以上の進展が見られないようなら纒向邪馬台国説は一旦棚上げするしかない。



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