◆鎌倉時代の金髪男
指定名称:『紙本著色男衾三郎絵詞』(通称「男衾三郎絵巻」)おぶすまさぶろうえことば
1巻
紙本着色
29.3×1260.9
指定名称:『紙本著色男衾三郎絵詞』(通称「男衾三郎絵巻」)おぶすまさぶろうえことば
1巻
紙本着色
29.3×1260.9
鎌倉時代・13世紀
東京国立博物館
A-11889
「都ぶりの優雅な生活を送る吉見(よしみ)二郎と、武芸一途の男衾三郎という武家の兄弟の物語。二郎は大番役のため上洛した帰路に山賊に襲われ、三郎に妻子のことを託して死ぬ。しかし三郎は二郎の妻子を虐げ、国司が二郎の娘を見初めたので引き離し、かわりに自分の娘を引き合わせるが、国司がその醜さにあきれる、というところで終っているが、現状には途中一部に欠落もあり、さらなる物語の展開があったことも想像される。流鏑馬(やぶさめ)など、武家の暮らしや合戦の様子などを描いている絵巻として著名である。絵は永仁3年(1295)ころに制作されたと考えられる「伊勢新名所絵歌合」(神宮徴古館蔵、重要文化財)と強い共通性があり、また画風に京都の正統的やまと絵とは異なるものがあること、『吾妻鏡』文治3年(1187)10月13日条などに伊勢の「吉見次郎頼綱(よりつな)」という人物が見え、説話の吉見二郎はこの人物から来ている可能性があるとする説があること、などからこの絵巻は伊勢地方におけるいずれかの貴顕の注文によって描かれたのではないかと想像する見解も出されている。」
http://www.emuseum.jp/detail/100332/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=177&num=2
東京国立博物館
A-11889
「都ぶりの優雅な生活を送る吉見(よしみ)二郎と、武芸一途の男衾三郎という武家の兄弟の物語。二郎は大番役のため上洛した帰路に山賊に襲われ、三郎に妻子のことを託して死ぬ。しかし三郎は二郎の妻子を虐げ、国司が二郎の娘を見初めたので引き離し、かわりに自分の娘を引き合わせるが、国司がその醜さにあきれる、というところで終っているが、現状には途中一部に欠落もあり、さらなる物語の展開があったことも想像される。流鏑馬(やぶさめ)など、武家の暮らしや合戦の様子などを描いている絵巻として著名である。絵は永仁3年(1295)ころに制作されたと考えられる「伊勢新名所絵歌合」(神宮徴古館蔵、重要文化財)と強い共通性があり、また画風に京都の正統的やまと絵とは異なるものがあること、『吾妻鏡』文治3年(1187)10月13日条などに伊勢の「吉見次郎頼綱(よりつな)」という人物が見え、説話の吉見二郎はこの人物から来ている可能性があるとする説があること、などからこの絵巻は伊勢地方におけるいずれかの貴顕の注文によって描かれたのではないかと想像する見解も出されている。」
http://www.emuseum.jp/detail/100332/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=177&num=2
◆鎌倉時代に金髪の山賊?(1)
この鎌倉時代の重文絵巻に不思議な山賊が描かれている。
ドアップ画像↓
http://tokyo-metanoia.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-320d.html
画像クリックでさらに拡大可能
この鎌倉時代の重文絵巻に不思議な山賊が描かれている。
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森浩一が『地域学のすすめ――考古学者からの提言――』の中でこれについて触れている。
「三河と崑崙人※1 との関係に注目すると、鎌倉時代に三河の東隣の遠江に現れたという金髪で鼻の高い異形の山賊も偶然の登場ではないようにおもえる。(中略)三河や遠江には東アジア系の渡来人とは別の渡来系の人がいたことも考えてよかろう。」(65P「東海学から見えてくる新古代史像」)
「三河と崑崙人※1 との関係に注目すると、鎌倉時代に三河の東隣の遠江に現れたという金髪で鼻の高い異形の山賊も偶然の登場ではないようにおもえる。(中略)三河や遠江には東アジア系の渡来人とは別の渡来系の人がいたことも考えてよかろう。」(65P「東海学から見えてくる新古代史像」)
※1 三河の崑崙人
天竹神社(西尾市)に祭られる崑崙人(天竺人=インド人)渡来(漂着)伝説で綿花種栽培の最古記事
「資物」をいくつか持って漂着したとあるのでおそらく南アジアか西アジアの商人だろう。
袈裟に似た紺の布を肩にかけ、腰にはフンドシをしめていたという。自らを天竺人と呼び、中国語をすぐに習得、綿花のほかに「随身物」各種を売ったという。船は小舟だった。おそらく三河、尾張の氏族はそれ以前から天竺?などと海外交易していたということだろうと森は書いている。
出典資料は「日本後記」「類聚国史」
当ブログの該当記事→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53583926.html
天竹神社(西尾市)に祭られる崑崙人(天竺人=インド人)渡来(漂着)伝説で綿花種栽培の最古記事
「資物」をいくつか持って漂着したとあるのでおそらく南アジアか西アジアの商人だろう。
袈裟に似た紺の布を肩にかけ、腰にはフンドシをしめていたという。自らを天竺人と呼び、中国語をすぐに習得、綿花のほかに「随身物」各種を売ったという。船は小舟だった。おそらく三河、尾張の氏族はそれ以前から天竺?などと海外交易していたということだろうと森は書いている。
出典資料は「日本後記」「類聚国史」
当ブログの該当記事→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53583926.html
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双方の異形の外国人がどちらも三河に登場するのは偶然ではあるまい。
尾張氏や海部郡の水人たちとの海外貿易がひそかに行われてきたゆえの、三河での出現であろう。
尾張の愛知郡の熱田には「海連津守(あまのむらじ・つもり)・同じく赤麻呂」などという海運氏族がいた。
尾張氏や海部郡の水人たちとの海外貿易がひそかに行われてきたゆえの、三河での出現であろう。
尾張の愛知郡の熱田には「海連津守(あまのむらじ・つもり)・同じく赤麻呂」などという海運氏族がいた。
東海地方の人々の日本列島に広がる痕跡からは、彼等が代々、日本全国へ商団を組んで旅あきないしていった「よく動く」人々であったことが見て取れる。例えば3世紀の纒向遺跡から東海系土器が多数出てくる。その数は全国から集まった土器の中で最大数である。奈良の学者達はこの東海系土器資料をまるで纒向だけのことであるように書き、それこそが纒向が首都邪馬台国だったからだとしたい傾向がある。
しかし東海系土器の出る地域はほぼ全国に及ぶ。とりたてて纒向だけの傾向ではない。
しかし東海系土器の出る地域はほぼ全国に及ぶ。とりたてて纒向だけの傾向ではない。
ただ3世紀という古い時代に、すでに尾張・三河・遠江の人々が広く動き回っている証拠にはなる。それは開発が遅れる内陸通路よりも海を船で運んだ可能性のほうが高い。
1 東海系土器は各地の海岸線都市からよく出てくる
2 かつては瀬戸内航路は航海が難しく太平洋沿岸のほうが航行しやすかった
3 隼人や安曇との連携が考えられる地名が愛知県に多い
1 東海系土器は各地の海岸線都市からよく出てくる
2 かつては瀬戸内航路は航海が難しく太平洋沿岸のほうが航行しやすかった
3 隼人や安曇との連携が考えられる地名が愛知県に多い
さてこの金髪山賊、本当に白人だったのだろうか?
絵巻にはいろいろと異形な部分が見える。
絵巻にはいろいろと異形な部分が見える。
1 横の野武士と比べて鼻が高く色が白い
2 奇妙な青い小さな烏帽子をかぶっている
3 刀が異常に長いように見える
4 金髪?あるいは亜麻色の毛皮つき烏帽子?が描かれている
5 頬と鼻が赤い・・・白人種の特徴
6 爪がとがっている(これは魔物・鬼の表現だ)
2 奇妙な青い小さな烏帽子をかぶっている
3 刀が異常に長いように見える
4 金髪?あるいは亜麻色の毛皮つき烏帽子?が描かれている
5 頬と鼻が赤い・・・白人種の特徴
6 爪がとがっている(これは魔物・鬼の表現だ)
とにもかくにもこの男、絵巻の作者は異人種としてまるで魔物のような捉え方で表現したことになる。
どう見ても日本人やアジア人ではなさそうである。
どう見ても日本人やアジア人ではなさそうである。
ひとつ考えられることは、織田信長の時代、信長は中国経由で黒人奴隷、イスパニアイエスズ会経由でおそらく白人か西アジア系かユダヤ系の外国人を通訳などで雇っていた可能性が大いにある。尾張・三河にはもともとそういう外国の人種を受け入れるグローバルな氏族がいたのだろう。
特に海連は海運氏族で海外貿易もしていたはず。
特に海連は海運氏族で海外貿易もしていたはず。
そうした東海の氏族の海外交流の背景には、必ずや縄文時代からの南海の白水郎たちの開拓した海のコースがあったはずである。
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コメント
コメント一覧 (13)
二年交代とか書いてありました。
ですから金髪の野武士はペルシャからの貿易商だろうと想像したのです。
モンゴル帝国が中国を侵略してきた時に港から逃げたのだと思います。外国人住居区があったと書いてありました。
遠州は税の関係で反鎌倉派がいたようです。それが絵巻
に山賊として描かれているのでは。
反閇庄司という者がいたようでこの者が反旗をひるがえしたと思います。
kawakatu
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http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%A5%DA%A5%EB%A5%B7%A5%A2%BF%CD&sk=0
あなたの参考になるでしょう。
kawakatu
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イランにトカラという地名があるのはご存知?日本にも鹿児島県の海上にトカラ列島があり、三河の崑崙人らはここから来た、あるいは漂着して鹿児島に引き連れられてきたようです。トカラ列島の近くにあの鉄砲伝来の屋久島がありますが、あそこの製鉄は鉄砲伝来よりはるかに降り時代の遺跡が出ていて、古代から製鉄をやっていたのです。すると崑崙人はもしやトカラ列島を中継地にして貿易にやってきたペルシア人かと、ぼくはもう何年も前に推測しておきました。
kawakatu
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kawakatu
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というか、ぼくはこのブログで、もうほとんどの謎や難問を書いたり解いたりしていますし、知らないことが減ってきていますから、ペルシア人のこともとっくに随分と調べ上げています。で、今後はあなたにその研究を譲りますから、自由にぼくの記事を使って、自分のブログでセンセーショナルにやっつけてみてください。期待しています。
たぶん、あなたが知りたいことは、ぼくはだいたい全部既知だと思います。
kawakatu
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kawakatu
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ペルシャ人の設定はやめます。
金髪は突然変異らしくヨーロッパでも珍しいようです。
昔ですからもっと珍しかったと思います。
スキタイ人を調べてみます。
kawakatu
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ヘラクレスはスキタイ人混血です。
kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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金髪の野武士はトルコ人として考えることにしました。
トルコ人には金髪の人がいるそうです。
13世紀に海のシルクロードで中国に向かったという設定で考えることにします。
それまでは陸のシルクロードしか頭に浮かばずアラブ人には見えませんから、ペルシャ人と思い込んでいたのです。
kawakatu
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ここで歴史にとって一番大事なのは、金髪がなに人かよりも、外国人がなぜ三河に記事が多いのかですので、それはあなたの言う水軍つまり古代の海部ですね、それが尾張三河地方に最も多かったからだとなるのでしょう。
それと、「トルコ人」とひとくくりにしてしまったらどうかなと思います。バルカン半島の歴史では、ここにペルシア系西アジア人そ祖先と、あとからケルト人が入っていますし、その後、フン族に追われたケルトやゲルマンつまり東ローマ人ですが、これも入ってロシアへ移動して行った歴史があります。つまりトルコでは金髪がいてもおかしくない。これをアナトリア人、あるいは緑の目の碧緑(へきりょく)人と呼びます。
kawakatu
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