この記事は見知らぬ大学生?の方から掲示板メールに質問があったので、急遽ここに入れ込むことになった。
軽い話なので不本意ではあるが、まずはご清聴あれ。幽霊の正体見たり枯れ尾花系の講談話か。
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軽い話なので不本意ではあるが、まずはご清聴あれ。幽霊の正体見たり枯れ尾花系の講談話か。
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■くだん「件」・牛窓・牛鬼・塵輪鬼
「件と書いて”くだん”と読むと妖怪の話になるのですが、備中から関西地方の神戸の辺りで流布されている妖怪の一種で、顔が人間で体が牛という姿をしているとされます。
「件と書いて”くだん”と読むと妖怪の話になるのですが、備中から関西地方の神戸の辺りで流布されている妖怪の一種で、顔が人間で体が牛という姿をしているとされます。
いわゆる”六甲の牛女”が”件”と同じモノとされていますが、岡山県の牛窓あたりの”牛鬼(うしおに)”もこの類かと思われます。
ちなみに、従来は邑久郡牛窓町の沖のという表現で良かったのですが、牛窓町が所属していた岡山県南東部の邑久郡の邑久町、長船町と合併(2004/11/01)し瀬戸内市牛窓町となってしまいました ・・・ いや、時代は行くものでございます。
さて、牛鬼の伝承は今は牛窓町の名前の由来にも関連するのですが、「備前国風土記逸文」などから引用される事が多く、神功皇后が三韓征伐の道中、この地で塵輪鬼(ちんりんき: 頭が八つの大牛怪物)に襲われ弓で射殺したのですが、その時、首と胴の二つに分かれて海に落ち、胴が前島(緑島)、首が黄島になったという話を前半。
後に、皇后が新羅からの帰途、成仏出来なかった塵輪鬼が牛鬼になって再度来襲してきたところを住吉明神が老翁となって現れ牛鬼の角をつかんで投げ倒したことから、この場所を牛転(うしまろび)と呼ぶようになり、転じて牛窓になったという話を後半にしている事が多いようです。
が、文献を読んでいると、牛鬼を射殺したものの帝(仲哀天皇)にも矢が当たって、帝が崩御されたとしか解釈できない記述があり、広く知られているパターンにはてなマークが付くことになります。
岡山界隈の鬼伝承のパターンで考えると、中央政権が”鬼”と呼称するのはだいたい地元に土着した豪族や、地元に属さない海洋武装集団ですから、塵輪鬼もたぶんにそうした存在であった可能性が高いと読み解くのが自然かなと。
そうした疑問に答えるかのような別の伝承では、仲哀天皇と神功皇后が三韓征伐に西下する情報を手に入れた三韓の王が王子の”唐琴”を派遣し、途中の牛窓あたりで阻止しようとしたと話が始まります。
天皇、皇后の船が牛窓沖にさしかかったところで、唐琴の配下の強将で魔法を操るとされた塵輪鬼(ちんりんき)が頭が八つの真っ赤な怪物に化けて襲いかかったと続きます ・・・ このあたりは、軍船団を八つに分けて赤旗の信号に従って八方から襲いかかった包囲戦だったのではないかなと推測しますが、空想の域を出ません。
この闘いで天皇軍はその怪物を弓矢で射殺し、怪物は分かれて海に落ち、胴が前島、首が黄島、尾が青島になったというあたりはともかく、天皇も唐琴の軍から放たれた矢によって崩御されたとされ、敵軍の将である唐琴は皇后によって射殺されたとされています。
で、以来この海は唐琴の瀬戸と呼ばれるようになったというのが前段の結びとなるのですが、こちらの方がありそうな話かなと。
さて、後段では、神功皇后が三韓征伐の帰途に再びこの唐琴の瀬戸を通ったときに、今度は牛鬼となって現れ、船を転覆させようとしたところ、住吉明神が老翁の姿となって現れ、牛鬼の角を持って投げ倒したことから、この地は「牛転び(うしまろび)」と呼ばれるようになり、それが訛って「牛窓」になったという話になり、こちらは大同小異かなと。
もっとも、この話だと塵輪鬼と牛鬼は別のものとなり、牛鬼の死体は、黒島、中ノ小島、端ノ小島になったとされるので、やはりここは、唐琴軍の残党が神功皇后の帰途を襲撃し、第三勢力によって撃退されたと読み解くのが自然なような気がします。
そうなると、仲哀帝の存在そのものがあやふやとされているのも当たり前で、三韓征伐に向かう途上で総大将が戦死(52歳)したという大スキャンダルが”あってはならないこと”とされ細部が意図的にあやふやにされたということではないのか?
別の伝承では、もっと大きなスキャンダルが隠されているという説もあり、大和の仲哀帝は当時九州を支配し本拠としていた応神帝を征討しようとして逆に討たれたとか、熊襲討伐(くまそとうばつ:199年頃)のため神功皇后とともに九州は筑紫に赴いた時に、戦いの最中に崩御され、応神帝の手を借りたという伝承もある。
このあたり、伊予国温泉碑文(道後温泉にある)によりますと「仲哀帝、神功帝と温湯に幸す。后因って身むこと有り。応神帝を生む」という伝承もあり、九州勢力とは”応神帝を息子にすることで政権を統一する”という手打ちが行われ、大和と九州の連合軍で三韓征伐が行われた可能性さえあるのかなと。
そう考えると、仲哀帝の死亡時期から考えて神功帝の妊娠期間が(石を抱いて産まれてくるのを押さえたともいう)というのも、既に応神帝は世に出ていたからではないのか?と まあ、仲哀天皇が日本武尊の息子で、日本武尊は熊襲討伐でも有名ですから、それこそ真相は神のみぞ知ると言うところか?
話を件に戻すと、古典となった感のある小松左京先生の「くだんのはは」などに登場している件はもっとおとなしい妖怪として描かれています。
小説などに登場する件は親牛から生まれた直後に予言をし、それから3日くらいで死んでしまうという、短命の予言妖怪として描かれていることが多いようです。
* 産まれた直後ではなく、何らかの節目が来るまでは姿を隠していて、ここぞという時に現れて予言をして数日で死んでいくという話もある。
それも、世の中が乱れる直前に生れ落ちては重要な予言をする事が多いようで、幸か不幸か件の予言は外れる事が無いとされています。
昔の証文などに「よって件の如し」という一段が末尾に付けられている場合、”件の予言のように(契約などを)たがえません”という一種の定型文として使われているあたりで、件がいかに生活に根ざしていたかということかなと(笑)。
その昔は、大分県は別府の八幡地獄で件の剥製が展示されていたともいうのですが、時代が下ると見せ物としての需要もでてきたようで、人魚の木乃伊よろしく、件の剥製が作られていたようです。
事に、あまり件信仰とでもいうのでしょうか?件の予言云々という伝承が無い関東などでは、”親の因果が子に祟り”ではありませんが、”牛人間(の剥製)”として因果興業の見世物になっていたようです ・・・ 人の剥製ってのはまずいんじゃないかという気がしますが。
まあ、ある民族にとっての神が、他の民族にとっては悪魔とされる事が珍しく無いように、件も箱根の坂を越したあたりで単なる異形の者ということになったのかなと。
件の伝承が備中から神戸界隈に広がっている一つの理由として、昔から牛の飼育が盛んだったことと無縁ではないと思いますが、遡れば素戔嗚尊あたりまで遡れる意外と根の深い話なのかもしれません。」
(2007/02/28)
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/itimuan/maru/old19/aya805.html
(2007/02/28)
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/itimuan/maru/old19/aya805.html
岡山の牛窓地名が神功皇后などの説話から出た海賊話が大元とはよく言われる。
「牛がまろう(転ろう)」から「うしまど」なのであるが、その牛の本性は牛鬼だったとあり、角のある海賊となり、瀬戸内の製鉄海人族・村上水軍・河野水軍など前身たちの海賊行為などを象徴した話だろう。するとくだんの「くだん」もまた人偏に牛で「半人半獣」を指すのかと見える。つまり鬼である。牛だから北北東の鬼である。要するに鬼門。
北北東(子丑ねうし)の風は時化を呼ぶ風。
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/miike/benri/kanten/fukuoka/fukukaze.htm
時化というと船。舟の民=瀬戸内海人族=村上水軍
水軍は時に海賊であり、海の通行権を主張した。それで瀬戸内の狭い瀬門で金品を徴収した。
従って牛窓湾に出没した塵輪鬼(ちんりんき: 頭が八つの大牛怪物)とは海賊であると考え付くことができよう。それの再生した姿=牛鬼もやはり海賊。それも角のある=ツヌガラシトや製鉄海人族=波多氏系海人族。つまり海部の下っ端であろう。こうした地域的ないざこざは管理者・海部氏のあずかり知らぬ事柄であったのかも知れない。
「牛がまろう(転ろう)」から「うしまど」なのであるが、その牛の本性は牛鬼だったとあり、角のある海賊となり、瀬戸内の製鉄海人族・村上水軍・河野水軍など前身たちの海賊行為などを象徴した話だろう。するとくだんの「くだん」もまた人偏に牛で「半人半獣」を指すのかと見える。つまり鬼である。牛だから北北東の鬼である。要するに鬼門。
北北東(子丑ねうし)の風は時化を呼ぶ風。
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/miike/benri/kanten/fukuoka/fukukaze.htm
時化というと船。舟の民=瀬戸内海人族=村上水軍
水軍は時に海賊であり、海の通行権を主張した。それで瀬戸内の狭い瀬門で金品を徴収した。
従って牛窓湾に出没した塵輪鬼(ちんりんき: 頭が八つの大牛怪物)とは海賊であると考え付くことができよう。それの再生した姿=牛鬼もやはり海賊。それも角のある=ツヌガラシトや製鉄海人族=波多氏系海人族。つまり海部の下っ端であろう。こうした地域的ないざこざは管理者・海部氏のあずかり知らぬ事柄であったのかも知れない。
すると天保時代に初出してきた「くだん」「牛女」もそれと似た概念の象徴化だったのではないか。出没する場所がやはり牛窓・児島湾に程近い、神戸灘や備中海岸部であるなら、これは中世から江戸時代にかけてそこに番居していた海部氏・尾張氏・大分君らの下っ端でいうことを聞かなくなった水軍の末裔だとなりそうな気がする。要するにやはり隼人・安曇のようなもともとはインドシナ系人種が混血した海の民が中心に居るはず。そこに時代を経て入ってきたサエギ部つまり蝦夷俘囚の末裔、あるいは渡来系半島技術者・鉱山師などの末裔も入るだろうか。
妖怪と言う者は、ようは、先住民であり、渡来民であり、かつ有る時期に新勢力によって追いやられた先祖からの恨みを形にしたものが多いのではなかろうか?怨念である。怨念が形を与えられるとき、どこの地域においても、往々にして牛、虎などに例えられたことは想像に難くない。
くだんが予言者であったという付会は、海人巫覡のことかと思える。その予言にたがわず約束は護るという言葉が「よって件のごとし」である。
牛鬼が塵輪鬼から別れ蘇ったというのは、生き残った一派がまた復讐で襲ってきたということだろう。
ずっとあとの江戸期になってまたぞろ牛鬼が出てきたり、牛女になっていたりするのは、以前の牛鬼伝承がまだ底辺で生きていた証拠だろう。あるいは実際に末裔が出てきたのかも知れないが、たった三日で消えてしまうという、さして害毒もなさそうな書き方にされたのは、天保時代の暇人たちの面白おかしく暮らそうという娯楽だったからかもしれない。いわば今の都市伝説と同じように、スリルや恐怖を余暇として楽しんでいるような気配がただよっている。言うならば民間ショートショート伝承とでも言うか、よするに平和な時代の妖怪趣味、カタストロフィ映画みたいなものだったのだろう。怪談の類と見てよい。その証拠に「くだんのこと」という文書末の但し書きとして生活に取り込まれた事実に見えているのだと思うところは引用サイトの作者に賛同できる。
牛鬼が塵輪鬼から別れ蘇ったというのは、生き残った一派がまた復讐で襲ってきたということだろう。
ずっとあとの江戸期になってまたぞろ牛鬼が出てきたり、牛女になっていたりするのは、以前の牛鬼伝承がまだ底辺で生きていた証拠だろう。あるいは実際に末裔が出てきたのかも知れないが、たった三日で消えてしまうという、さして害毒もなさそうな書き方にされたのは、天保時代の暇人たちの面白おかしく暮らそうという娯楽だったからかもしれない。いわば今の都市伝説と同じように、スリルや恐怖を余暇として楽しんでいるような気配がただよっている。言うならば民間ショートショート伝承とでも言うか、よするに平和な時代の妖怪趣味、カタストロフィ映画みたいなものだったのだろう。怪談の類と見てよい。その証拠に「くだんのこと」という文書末の但し書きとして生活に取り込まれた事実に見えているのだと思うところは引用サイトの作者に賛同できる。
コメント
コメント一覧 (5)
って、言っちゃったよもう。
kawakatu
がしました
しかし、自分の知識のなさを痛感します。まだまだ勉強しないといけませんね。
今回は本当にありがとうございました。
kawakatu
がしました
いや、楽しい時間が持てました。感謝いたします。
kawakatu
がしました
kawakatu
がしました
kawakatu
がしました
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