災害と人柱・人身御供・生贄「水の御柱」観念

■十五の森の人柱
愛知県の名古屋市と春日井市との間を流れる庄内川の北岸に「十五の森」と呼ばれる祠があります。
室町時代に川の氾濫を防ぐ為、15歳になる娘を人柱として沈めたのだとか。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E3%81%AE%E6%A3%AE
この地域ではとても有名な話で、小学校等での郷土の昔話を学ぶ際に非常によく用いられる伝承です。

さて、この川の対岸川下寄りに「十五」という地名があります。
ここは同じく庄内川の氾濫を防ぐ為、15歳の男が人柱として沈められたという伝承があります。
http://qa.itmedia.co.jp/qa5823940.html


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どちらも愛知県の春日井の話である。愛知と言えば『尾張国風土記』逸文や地誌でも人身御供、生贄の多かったことが知られている。尾張から岐阜の愛発(あはち)にかけては、今でこそ内陸だが縄文海進で湾が深く切れ込み、「あはちま」と言えば天武天皇壬申の乱でも津として記録がる。尾張に海部(あま)郡があり、尾張氏がそもそも海人族の頭領であり、そこから海部(あまべ)氏が出ているほど、愛知県東部から三河湾までは海と河に深く関わる土地柄。
つまり海人族、船の民にも人柱はつき物といっていい。

そもそも船で波浪にあえばまず人柱、ということはヤマトタケル神話での神奈川沖で弟橘媛の入水があり、周知の話であろう。卑弥呼の時代にも「持衰(じさい)」という人柱のような存在が書かれている。
古墳の殉死なども人柱の一種だろう。


画像サイト→http://blog.livedoor.jp/kikuzi/archives/1463279.html

十五という数字には記事にあるような大人と子供の中間になった=成人したという意味があるだろう。さらに5、10、15などには陰陽で霊魂の意味がある。五郎とか十郎とかにもそういう意味が持たされる(曾我十郎・五郎兄弟のあだ討ちなど)
。甚五郎なども同じで、神業の匠だったから人を超越しているという意味で五郎がつく。実名は飛騨の甚平だった。
ちなみに十一は鍛冶屋を指す。片目の絵文字である。(十一)ほら片目に見えるでしょう?
大人でも子供でもない年齢が十五であるから、それは人でも神でもない存在、ゆえに人柱、生贄の年齢になるのだろう。
これが中世から近世の中間(ちゅうげん)観念である。〔Kawakatu〕

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■近々の人柱の例ではやはり江戸城の人柱であろう。大正時代に皇居を改築するときにお堀から数体の人柱が出たのは新聞記事にもなった。→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/34582142.html
新聞記事(かわかつワールド)→http://white.ap.teacup.com/kawakatublog/10.html
 ●皇居の「人柱」事件
 「大正14年(1925)6月24日『東京日日新聞』朝刊に、「宮城二重櫓やぐらの地下から立姿の四個の『人柱』現はる」という見出しの記事が掲載された。」
「神、人を食う」六車由美著 http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/kami.htm
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■人柱祠(ひとばしら・びょう)
「人身御供とは厳密には違う概念だが、災害や神の祟りから土地などを守るための究極の秘技という点では同じ」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/42943643.html
この人柱祠は漁師町の海岸に立っていた。つまり実際にあっただろう人柱は常に漁業や津波事故への防御、結界なのだ。
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■人柱の必要性
「水田耕作が順調にすすめられるようになると、堰を作る大土木工事がなされる。その折りに人柱が立てられた」
「人柱には、神の託宣を聞いた子連れの女性が選ばれる」
「この点と関連して、もう一つ見落としてならないのは、人身御供にみる祓浄(ふつじょう)の要素である。つまり人柱が立つことによって、災難が消去されるという思考である」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/43224160.html

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■水神様の御柱(諏訪地方)
「春は諏訪大社の御柱祭、
秋は、それぞれの地域の氏神様の御柱祭(通称:小宮の御柱祭)と、
今年の諏訪地方では、ありとあらゆるお宮で御柱祭が行われて、
お宮を囲む四方の木の柱が立て替えられたのでした。

うちの八味屋池のお水神様の御柱祭。

御柱祭は、年をまたぐ(申年と寅年意外の年に行う)と、
大変良くないと忌み嫌われる」
http://blog.goo.ne.jp/s_hachimiya/e/ada934093c4cbe06d5a42a2334c644f1

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諏訪にはこうした古い信仰がたくさん残っている。
朝鮮にそっくりなものがある薙鎌を木に打ち付ける風を収める神事、あるいは鉈を棒にくくりつけて立てたり、屋根の鬼瓦にゆわえて、風を切り捨てる「風切(かざきり)神事」などもだいたい陰陽道から来ていると見られる。いわゆる「金克木」である。金気で木気を鎮撫する。

井戸の四隅に柱、というのは神道や神仙思想、あるいは陰陽道では祖霊が宿る四至(しいし=四方)を差し、例えば出雲の四隅突出型古墳などでも四箇所に出っ張った祭祀する場所を造っていた。ここで祖霊を祭り、霊魂の再生などを祈った。


   馬見古墳群巣山古墳の水の祭祀場

そういう突起した祭祀場は全国的に水が流れ出る場所に造られる。古墳の周溝にはそういう水で清める、また結界の意味があるのだ。古墳や大きな建造物、堤などを造成するときにはやはり人柱を建てて工事の無事を祈った。

諏訪の御柱(おんばしら)は諏訪四社からそれぞれ切り出された大木を四隅に立てる神事である。つまり四方を鎮護して祖霊の降臨、再生を迎える儀式。諏訪湖は持統天皇時代以前から大風を吹かせる穴とされ、そこから台風、風水害が起こるとされたため、風の祝である阿蘇氏大祝が神長官として入った。大木は人柱の代わりだと言えよう。ゆえに神事で人が死ぬのはむしろ神が喜ぶハプニングだった。


http://www.cleanup.co.jp/life/edo/13.shtml

それを水の四隅に立てる。神社の四隅にも建てる。転ばぬ先の杖である。
つまり災害は人を殺すゆえに、災害を引き起こす神(水神・竜神・蛇神・雷神など)に前もって贄=生娘を差し出す。往古は生娘たちは数人となっていて、神事の最後は神前で自害した。尾張などではまな板に乗せて切り刻むという凄惨な儀式も過去あったという。生娘はやがて男にもなり、老婆にもなり、やがて旅人へと移行。仏教が入ると人ではなく動物供犠、そして儒教で人型や人形や植物になっていった。→阿蘇のうなり、湯布院宇奈伎姫神事。すべて阿蘇氏が神職。

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■津波・波浪・遭難・新築・土木工事・古墳工事には人柱
地鎮祭にはつきものだった。
人の霊魂・・・縄文時代には夭折幼児遺体を甕棺にいれて家屋の真下に埋める=魔よけ。
子供、老婆、生娘、夭折乳児、流産胎児=人ならぬ存在
それが魔除けとなる。神、鬼、悪霊に打ち勝てる尋常でない存在だったのである。

■水、火は水気、金気
ゆえに水で清め、火で加持祈祷する。
護摩(往古は大麻を用いた。ゆえに今でもどんどで燃やす木片を当麻(たいま)と言う)を焚いてトリップする。水を聖水として人を清め、土地を清める。穢きものをハレに変える。
キリスト教の煙と聖水もまった同じ観念である。
さらに牛馬の胴体(首を神前に捧げた)は清める川に流す。
(これを拾って食べていたのは神人(じにん)やえ×である。環境には役立った。ゆえに今でも環境×関××者になっている。最も役立つ人や技術者を差別したのは儒教の教えからである。今でも本当に役に立つ仕事は、高給だが身分的に低いところになるし、本当に役立つ仕事は実務であり、虚業者ほどは儲からない3Kなのだ。)

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こうした風習は江戸時代、武士の儒教観念からすたれていく。
しだいに「かたしろ」「贄としての産物」だけになる。「かたしろ」とは人の身代わりである。紙を切って造られる。
紙を切るとは、神を殺すという意味だろう。
サッシン(殺神)という。
殺牛殺神風習には牛馬を人の代わりに捧げるという意味以外に、それこそが神で、災厄を引き起こす神そのものを殺すと言う意味合いもあっただろう。神は決して民衆が喜ぶべき存在ではなかったのだ。
ゆえに古代から人々は祖霊を重視し、神は遺体を食べに来る=腐乱させるから、石人やダイダラ坊を墓に描き、立てて魔除けとしたのである。弥生人が甕棺に幼児を入れたのも、縄文人が幼児を列石のポール下に埋めたのも、夭折幼児や災害死亡者というような異常死には霊魂が早く戻り、村を護るという信仰があったためである。彼岸に祖霊を祀るのもまったく同じで、死して来訪神となるべき祖霊を迎えるのが盆・正月・彼岸の当初の観念である。

昨日から彼岸。
春分には墓には行かずとも祖霊の存在を感じて、悔い改めるが正しい過ごし方なのだろう。
もちろん墓参りは行くにこしたことはない。筆者は雨模様と混雑をさけて明日行くことにしている。


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