「金隈遺跡は福岡平野の東部、御笠川に沿って南北に伸びている月隈(つきぐま)丘陵のほぼ真ん中あたりに位置している。近くには、日本でも最古の水田跡の一つと言われる板付遺跡や、すこし南下した春日市には、奴国の中心地ではないかと推測される須久岡本(すくおかもと)遺跡などがあり、この一帯はまさしく弥生時代の遺跡の宝庫である。昭和43年、桃畑の開墾作業中にこの遺跡は発見された。福岡市教育委員会の発掘調査の結果、弥生時代の大規模な共同墓地の跡として、学問的にも非常に価値の高い遺跡であることが判明し、昭和47年には国指定の史跡となり長く保存されることとなった。金隈遺跡は墳墓である。つまり墓であるが、紀元前2世紀頃(弥生時代前期の中頃)から西暦2世紀頃(弥生後期前半)まで、約400年に渡って使用された弥生人達の共同墓地の跡なのだ。しかも、副葬品や埋蔵物に、鏡などの権力者が保有していたと見られるものが全くないことから、一般弥生人、つまり庶民達の墓地であることが確認された。
この遺跡からは、348基の甕棺墓(素焼きの甕や壺をお棺に使用するもの)と、119基の土こう墓(土を長方形に掘って遺体を葬り板をかぶせるものと、木を組み合わせたもの(組み合わせ式木棺墓)の2通りの様式がある。)、及び2基の石棺墓(石を長方形に組み合わせ、その中に葬るもの)が発掘されている。時代的には、土こう墓、甕棺墓、石棺墓と変遷していったようである。甕棺墓が最も多く作られていることから、この地方で甕棺をつくる技術が発達していたものと思われる。遺跡は発掘時の姿をそのまま残すため、覆い屋でそっくり覆われて「甕棺展示館」として公開されている。私は1998年12月に、岳父と一緒にここを訪れた。
山口県土井が浜遺跡も弥生時代の集団墳墓であるが、あちらは砂地に直接遺体を埋葬している。カルシウムを多く含んだ砂地だったため遺骨が残ったが、この金隈も石灰岩の台地だったため多くの人骨が残っている。土井が浜の骨は現在全てレプリカだったが、ここでは防腐処理を施した本物の人骨である。2000年前の弥生人の遺骨そのものを見ていると思うと、妙な感慨にとらわれる。どれか一体が、私のじいさんかもしれないではないか。はるか幾世代か前にしても、この中の一人から今の私があるのかもしれないと思うと、DNAの不思議さに感動する。今日は、2000年後の墓参りかもしれないと思った。」
http://inoues.net/yamahonpen16.html
井上ネット 例によってビートルズBGMあり。そろそろBGMはやめにしてね、井上さん。^^

このサイトのこのページにゴホウラ貝輪や銅鐸、甕棺の画像が満載だ。おすすめ。

井上氏がお書きのように、ここは福岡平野の東側、甕棺墓が出る地域としてはかなり東の端っこに位置するから、西の松浦周辺、吉野ヶ里周辺から甕棺墓氏族が「東遷」していった先だろう。実際には筆者は「追いやられていった」のではないかと見ている。というのはその後の甕棺墓はもう九州以外のどこからも出てこないからだ。もし甕棺墓氏族がここでの争いに勝てたのなら、その後、甕棺埋葬はどんどん東へ展開されていっておかしくない。しかしそうではなく、各地には各地独自の新しい埋葬形態が始まっている。たとえば方形周溝墓などがそれであろうか。そしてさらに100年後には円形周溝墓や方形周溝墓の「ブリッジ」がそのまま墳丘の一部として残り前方後円墳・前方後方墳の元になる小古墳が開始されたと考えられるのである。つまり甕棺墓氏族は列島から姿を消した。

土井ヶ浜では甕棺墓ではなく、海岸にそのまま放置されたかのごとく裸のまま、しかしそれでもある様式にのっとった埋葬をされた遺骸が出た。ここから東、出雲に移動する間に?彼らは四隅突出型という独自の墳丘墓を持つことになったのか?あるいはまったく違う勝ったほうの氏族が出雲に入ったか?わからない。あるいはまったくつながりがない突然の来訪があったのかも知れない。

この遺跡にあるゴホウラガイで見れば、細々と出雲の猪目洞穴に氏族が行った形跡は見て取れる。その流れは気比まで行っている。けれど細々としている。

一方、瀬戸内側の方も細々としている印象がある。これは北条芳隆氏らの意見であるが、九州ではゴホウラガイを珍重するあまり、乱獲して使い果たし、資源が枯渇したことがあり得るといういう。それで移動していくということでなく、ゴホウラから出る巴形が仕方なく絵柄として代用された結果、ゴホウラ貝遺物が東へ行くほど(つまりあとになるほど)少なくなり、結果、瀬戸内では吉備の孤帯文、孤文に変化し、象徴的家紋?になっていくと思われる。

つまりすべての孤文の大元はやはり吉備なのではなく、北部九州がもともと持っていたゴホウラガイにあったことでいいと思える。

それが大和へ行ったということになるだろう。
したがって森浩一氏が言ってきた邪馬台国東遷はあったのではないかなと確信できる気がしてきている。諸氏はいかがなものいでしょうや?

しかし北部九州の那珂川から西や南、熊本北部に広がっていた甕棺墓は消える。おそらくだが南九州海人族・・・記紀ではクマソの、ゴホウラ外交が枯渇によってとぎれ、一転、南北に政治的・呪術的な断裂が起こり始めたのではないか?そしてそこにはどうにも中国がなんらかの形で関わったのではないかと・・・。

というのは熊襲の居住地である熊本県南部あさぎり町にある古墳から金メッキされた神獣鏡が出ており、森さんも口をすっぱくして熊襲国家が実は中国南部王朝と通じて、非常に洗練された実力を持っていただろうからだ。なにがしかの外圧(例えば景行天皇やヤマトタケルのような東の大和や吉備か、北部九州の氏族が来た)によって熊襲は分裂し、球磨族・大隅曽於族・阿多曽於族などへと分裂している。阿多は大和に早くから帰順、大隈はいつまでも反駁。そして球磨族は平定という構図が記紀からは読み取れるだろう。

その後応神天皇が新羅の血脈に限りなく近いえがかれかたで登場。となると景行の流れとはやや違った王として登場したことになろう。それが一気に瀬戸内海の東の端である河内平野に登場してくる。そして九州では装飾古墳が開始。そこには南海の中国・半島交流氏族の痕跡としてのゴホウラから生まれた装飾がゴホウラ現物に代わって描かれた。とすると装飾古墳という九州南西部に多い墳墓様式の登場は、甕棺墓に取って代わったことになるのだが、実は同じ巴形などの装飾はまったく同じ呪物だったことになるわけだ。これは一見矛盾する。勝った氏族が負けて追い出されたはずの氏族と同じステータスを持っているとは?それはもちろんこういうことだ。かつてはゴホウラで仲がよかった加工者と消費者が戦ったのである!

少なくとも自分には今のところそう見える。
今後どうなるかはわからないが。

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