「参考文献 日本後紀巻第十  延暦二十年より 801年
①  802年 延暦二十一年
春正月丙寅(ひのえとら11日)
従三位坂上大(おお)宿禰(すくね)田村麻呂を遣わして陸奥国の胆沢城を造らしむ。
岩手の胆沢に諸国(駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等)
の浪人4千人を配置して柵(城)を造らせた。この時には、すでに出羽国の雄勝城が出来ていた。。
② 802年 延暦二十一年
夏4月庚子(かのえね15日)
 造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大(おお)宿禰(すくね)田村麻呂等言さく、「夷(えみし)、大(おお)墓公(ものきみ)阿(あ「)弖(て)利為(りい)・(・)盤(いわ)具公(ぐのきみ)母(もれ)礼(れ)等、種類五百余人を率いて降る」と。
 ③.802年 延暦二十一年
秋、八月丁酉(ひのととり13日)
 夷(えみし)、大(おお)墓公(ものきみ)阿(あ「)弖(て)利為(りい)・(・)盤(いわ)具公(ぐのきみ)母(もれ)礼(れ)等を斬す。此の二虜は、並びに奥地の賊首なり。二慮を斬する時、将軍(田村麻呂)等申して云う、「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と。而るに公卿執論して云う、「野生獣心にして、反復(うらぎる)定无(な)し。儻(たまたま)ま朝威に縁りてこの今日梟(きょう)帥(すい)を獲(とら)う。もし申請に依りて奥地に放還すれば、、所謂虎を養いて患いを残すならん。」と即ち、両虜を捉えて、河内国の④植山に斬す。
⑤.803年 延暦二十二年
二月癸巳(みずのと・み12日)  
 越後国をして米三十斛(こく)・塩三十斛造志波城所に送らしむ。
造作の任務を田村麻呂に命ずる。」
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/39602442.html


●坂上田村麻呂と坂上氏・大蔵氏
「坂上氏(さかのうえ・うじ)は日本の氏のひとつ。代表的な人物に征夷大将軍坂上田村麻呂がいる。後に清水寺別当、鎮守府将軍、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した。

後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とすると伝わるが実際にそれを示す一次資料は全く存在しない、また中国に居られなくなった阿智王が天皇に忠誠を誓い天皇の使者として呉に派遣された(と)あるが、これも呉に到着したのが308年(280年に呉は滅亡後)の為、阿智王が始祖であるという説は信憑性に欠ける。詳しくは、後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)であるとするという説であり、その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志努であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)がこれは後に権威付けで用いられた可能性が高い。坂上志努には志多、刀禰、鳥、駒子らの子があった。その子孫が坂上田村麻呂である。大蔵氏と同族。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E6%B0%8F#.E5.9D.82.E4.B8.8A.E6.B0.8F.E3.81.AE.E7.B3.BB.E8.AD.9C.E3.81.A8.E5.AD.90.E5.AD.AB

「大蔵氏(おおくらし)は、「大蔵」を氏・本姓とする氏族。渡来氏族の東漢氏・秦氏の内、国庫である「大蔵」の管理・出納を務めた者がその職名を氏の名として称したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F

このように坂上氏の出自にはなぜか新羅系秦氏枝族である大蔵氏と、百済系東漢氏の両方があって、あきらかではない。
一般的に東漢氏の傍系であれば内蔵氏を名乗るだろうが、秦氏系が多かった大蔵氏子孫となっている。
これは大蔵・内蔵内部に後世両氏族の混在が起きたためだろうかと思える。
あるいは東漢氏のパトロンでもあった蘇我本宗家滅亡後に、内蔵が大蔵に一本化されたせいなのかもしれない。
ただ田村麻呂の名からは済州島の旧島名タモラを思い起こすことは可能であるか?

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