史書について疑義するとき、常に自説や疑義すること自体に反対の視点が存在することには気配りすべきである。そこで筆者はできるだけ、疑問提示するほうの参考文献と、反対に『日本書紀』に捏造や改ざんはなかったとする参考文献の双方を同時に読むことにしている。今回の参考書は前者が遠山美都男『日本書紀の虚構と史実』であり、後者が遠藤慶太の『東アジアの日本書紀』であり、その中間として黛弘道編『古代を考える 蘇我氏と古代国家』の三冊を平行して読むことにした。いずれも本年度2012年出版の最新版であり、著者はベテランから中堅そして若い世代と、バラエティに富んでいる。



さて、疑義する対象である『日本書紀』には、編纂の翌年からすでにその訓読や意味を教授する講義が設けられている。これを「講書」と言い、その講義録がちゃんと残っている。

◆『日本書紀私記』
「『日本書紀』については、平安時代に(ママ、養老5年は平安ではなく奈良時代末期)、養老5年(721年)、弘仁3年(812年)、承和10年(843年)、元慶2年(878年)、延喜4年(904年)、承平6年(936年)、康保2年(965年)の7回の講書が行われたとされる。(養老を除けばほぼ30年おきに講義が行われたKawa)

『日本書紀私記』は、これらの講書の記録であり、種々のものが作成されたと考えられているが、現存するものとしては甲乙丙丁の四種が知られている。甲乙丙本は水戸の彰考館に伝えられたもので、彰考館本と呼ばれる。また、丁本は六人部氏本と呼ばれる。このうちどの本がどの年代の講書の私記であるのかは明らかでないが、甲本は弘仁、丁本は承平の講書の私記であると考えられており、甲本は『弘仁私記』とも呼ばれる。

鎌倉時代に成立した『釈日本紀』にも、元慶や承平の私記が引用されており、『日本書紀私記』は『日本書紀』を解釈する上で重要な史料である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E7%A7%81%E8%A8%98

◆養老講書
以上の「私記」にある『日本書紀』講義録のうち、特にその成立からまもなく行われたものを「養老講書」と呼んでいる。講師は『古事記』編纂した太安万侶が養老五年、同族の多人長(おうの・ひとなが)の弘仁三年の講義がよく知られている。


これに先立って「養老五年私記」という講義記録があった(『本朝書籍目録』)という。また『日本書紀』にもそういういくつかの記録のあったことが書かれている(「養老説」「養老日本私記」)。
平安時代の講書開催については『釈日本紀』開題に記録がある。
養老5年は『日本書紀』提出年の早くも翌年のことになるので、これを以って各種の『日本書紀』疑義は起こりえないのだ、改変もできない、とするのが若き史学者である遠藤慶太である(『東アジアの日本書紀 歴史書の誕生』吉川弘文館 2012)。


記紀の疑義、謎があるとする立場でモノを言う場合、常に別の意見がまとわりつくのが常であるが、それ以前に、そもそも『日本書紀』が当時の氏族たちに講義されたという事実は、確かに、虚構を書くにはあまりにガラス張りの状況である。ただ、『日本書紀』については、天武・持統年間の藤原不比等らによる律令政治との齟齬なき描き方をされていることは誰もが認めることで、当時の講義を受講した、当然、各有力氏族から選出された俊英の代表たちにとっても、祖先から伝えられてきた氏族別伝承や神話との微妙な相違に対し、口を挟めたかどうかは立場的には難しかろう。また、書かれている内容そのものを、ある年代以上さかのぼるにはすでに記憶がうすれてしまっていたことも考えられる。『日本書紀』の多くのエピソードは当時までの天皇に妻を出すような超有力氏族の伝承が中心であり、それ以外の氏族には初見の内容も多かっただろう。100年前の飛鳥時代のことなら人の記憶にあろうが、それ以前は古今伝授で氏族に伝わるもので、当然記紀編纂の目的がそうだったように、若い氏族の間でそれらの正鵠な伝承はすでにうやむやになっていたことが知られている。となると、これらの講義の意味は、難しい『日本書紀』の漢文体の翻訳と同時に、受講者はむしろ過去の有職古事を知るために参加したことは充分に考えうるのである。

遠藤は講義があったということは、『日本書紀』内容の改ざんはなかったと考えるべきだと言うのだが、確かに大前提はそうなのだろうが、以上のような、すでに伝承が曖昧模糊としていた奈良末期以降には、受講者の日本史への無知は明白で、それどころか先に編纂した『古事記』が、わずか10年も経たぬうちに『日本書紀』へとバージョンアップされたことや、『日本書紀』が「一書曰く」としていくつもの別伝を載せねばならない状況・・・つまり選択する記憶が編纂者にすらすでにわずかしかないので選別しがたい状況だったことを鑑みれば、講義によって受講者氏族側から疑問や異論がそれほど出ないことになっていただろうことは否めないのである。

「『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に七年を要している。」
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80_%E6%9B%B8%E7%B4%80%E8%AC%9B%E7%AD%B5%E3%81%A8%E6%9B%B8%E7%B4%80%E5%8F%A4%E8%A8%93
このように講義は延々と『日本書紀』全部の講義に渡ろうとはしているが、なかなかすべてを終了するには至らなかった。こうなると当然、当初の受講者すべてが終演まで貫徹できたかもあやうくなってくる。

遠藤自身も書いているように、「天武朝に開始された歴史書の編纂は、国家制度を整備する意図にもとづき、同時期の律令編纂と関連する」わけで、記紀ともに天武天皇の肝いりで、天武朝、天智朝などの正当性のために書かれたのであり、編纂された国の正式史書でもある。もしそれに対して同意しない氏族があっても、一度書き上げられた正史を容易に書き直させるには、相当な朝廷内での実力がなけらばなるまいし、またあきらかな捏造が露見すれば、これは編者の自刃にまで及びかねない。しかしそこに天皇の強力な体制や、それをバックアップした息長、藤原、和邇、葛城残党などの有力者からの反対意見がなければうやむやにされたことは必定である。従って講義によるガラス張りがあったにしても、編纂時からの「造作」には誰も口ははさめなかったと筆者は見るのである。

さらに、講義内容がどこまで『日本書紀』全体まで網羅したかも問題である。神話部分や三輪・河内王朝あたりだけなら、どうだったか。特にその講義内容の中核を占めたのは、渡来人によって書かれた本格的漢文の読解や訓読に向けられた可能性が高い。当時、漢字による表記が始まってまだまもなく、しかも日本人史(ふみひと)と言えど自在に漢字を手繰れなかったことは森博達の書紀分類を見えればよくわかる。当然、口伝のあやふやな伝承しか、多くの朝廷氏族や官僚(ほとんどが渡来人?)は知らなかったわけである。

しかしながら遠藤のこの著作は、『日本書紀』がどのような行程と意義で作られたかを詳細に知るには有益な書物である。

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