◆水軍
「水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、船党、警固衆(けごしゅう)、海賊衆などの呼称もある。

島国日本では隣国の朝鮮と同様に、古代から沿海部に居住する海民が水上兵力として活躍した。古代ヤマト政権の時代には、日本の水軍を支えたのは安曇部(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちであった。古代の日本においては国家の背骨は大阪湾、瀬戸内海にあり、紀ノ川流域の紀氏のように瀬戸内海に対する天然の良港を持ち、後背に木材産地を確保した大豪族も独自の水軍をもって活躍した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%BB%8D#.E4.B8.AD.E4.B8.96.E3.81.AE.E6.B0.B4.E8.BB.8D

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中世水軍の多くは古代から続いた海人族によって構成され、船の技術も彼らから受け継がれてきた。
古代海人族とは要するに魏志に言う筑紫の「倭人」である。
歴史時代には安曇部、海人部、津守氏などが著名。
古代海部郡、海郡関連地名にはかつてこの海人族が住まっていた。
それが北上しつつ、伊予や熊野や出雲・若狭の海人族となり、さらに北上して相模や伊豆や越後以北にまで広がってゆく。船を家とし、海上を住まうところとした。つまり海岸は仮の住まい、家族のいるところであった。

やがて朝廷が彼らをまつろわぬ者としたことにより、海岸部に住まわせられ、租税として海産物などを差し出すようになり、帰順した。その調伏のせつには多くが相伝されてきた舞いを奉納して当座の租税のかわりとしてる。



●三浦水軍と伊豆水軍 
伊豆半島では古くから水軍、海賊が発生していました、1491年(延徳3年)伊勢新九朗宗瑞(北条早雲)が堀越公方足利茶々丸を殺害し伊豆国を占領し同国韮山城に拠点を置くとそれら伊豆半島の水軍、海賊は北条氏の傘下へと組み込まれたです、更に早雲は小田原城の大森氏を滅ぼし三浦義同(道寸)とその嫡子義意の死守する新井城を落城させ旧三浦水軍の出口氏、亀崎氏、鈴木氏、下里氏・・・など各諸氏を吸収し三崎十人衆として三崎周辺を領有させました。
http://hya34.sakura.ne.jp/musasinannbu/suigunn/suigunnsoubi.html






●城ヶ島の三浦氏
「鎌倉時代、三浦半島一帯は三浦氏の支配下にあり、城ヶ島はその水軍(三浦水軍)の本拠地であった。 戦国時代、三浦氏は一度は滅亡するも相模三浦氏として再興していたが、1516年に北条早雲によって新井城、三崎城が落城、滅亡した。この時、亀崎、鈴木、下里、三富、出口を名乗る者を中心とする残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗した。彼らは三崎の船を全て城ヶ島に持ち去ったため、責めあぐねた早雲は建長寺、円覚寺の両和尚に調停を頼んでようやく講和したという(『北条五代記』)。この残党は「三崎十人衆」と呼ばれ(『小田原衆所領役帳』)、北条氏の下で里見水軍の侵攻をよく防いだとされる。彼らの苗字は現在も三崎に残っている。 北条氏の支配下では、梶原景宗率いる北条水軍が房総半島の安房里見氏と対峙した。里見水軍はしばしば城ヶ島周辺を来襲していたが、1562年に城ヶ島に上陸すると、北条軍は三崎城に陣を構えて海戦となった(三崎三浦海戦)。現在、島にこれらの遺構は残っていないが、城ヶ島から三崎を望んだ際に見える高台が三崎城跡である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E3%83%B6%E5%B3%B6


水軍を知るためには古代海人族にまでさかのぼる必要がある。
そしてその源流になる彼らには壱岐対馬を源流とした安曇族や、奄美琉球諸島を経て薩摩地域を源流とした隼人族や久米族などがもともとあって、各地に工人、舟人として材料である木材や鉄を求めて北上し、各地の豪族と結びついた歴史がある。

彼らが倭人なのであり、そしてその「日本列島での歴史」は縄文時代にまでさかのぼる。
さらに彼ら以外にも、華南やインドシナ半島、ソロモン諸島などのオセアニアにまで広がっていった海洋民族としてのオーストロネシア膠着語を使う諸集団の研究も欠かせない。

そして彼らが北上した途上にあったのが日本列島九州島や熊野、三浦、伊豆半島、出雲、若狭、能登、越前越後であり、東北地方であり、北海道嶋、朝鮮半島であり、アムール川沿海州、カムチャッカ半島などなどがあることも忘れてはならない。

彼らには海上の情報網、ネットワークがあった。そしてほぼ共通の生活習慣と文化、言語があって、それが今の日本人の言葉や生活様式に多大な影響を残しながら、結果としては氏族の主流にはなりえずに、朝廷の海部として管理下に置かれ、労働と水先案内と貢物をさしださされた埒外の扱いをされつづけること、彼らがのちの蝦夷と同様に鉄を探し、山地を徘徊し、奥深い山々にその資源採集と製鉄の痕跡を残しつつ移動し、日本史の影にあって、大きな戦力として時の権力や豪族たち、武士たちに都合よく使われ続けた漂泊の技術者の、渡来系以外の一角=出雲族でもあったことこそが、こんにちの近代日本の礎となったことこそが本当の日本史であると筆者は考える。

群集墳のあるじ、それは彼らでもあったのだろう。

太平洋側で国東・四国伊予・熊野・鎌倉・伊豆、へと彼らは拡大した。
古代では尾張氏や物部氏に協力し、海部氏の傘下にあったこともある。
その信仰こそが女神信仰・太陽信仰の源流・大元でもあった。
そして彼らの大陸から持ち帰る情報こそが氏族拡大や伝説の基礎となった。
彼らこそが民衆であり、島国日本人の魚食生活、南方風高床住居、神社信仰、森と山と里山と川の民の文化をつねに更新させ、そして自らはいずかたへと消えていく存在であった。

彼らには半島も中国も西域もインドも、海がある限り国境などないコスモポリタンだったのだ。
コメと魚と塩と製鉄・・・彼らが居なければすべての日本らしさの象徴として日本的とわれわれが思っているすべての文化は完成しなかったはずである。

武内宿禰末裔氏族との古代における合体からこの瑞穂の国は始まったと言っても過言ではない。
すべての日本人の血潮の中に、今も彼らの潮との葛藤の歴史は刻み込まれている。




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