NHKが1963年(「花の生涯」)に開始した大河ドラマを、私たち世代は子供の頃からすべて見てきた世代である。もちろん当時は食い入るようにかじりついて視聴した。

やがて社会に出ると、若い頃はいくつか見落としてしまっている。日曜日が仕事の人間はみんなそうだろう。「炎立つ」と「将門」「太平記」などはそういうもののひとつである。

大河ドラマに対して多くの歴史に深い知識を持たない一般的な視聴者は

●NHKだからちゃんとした歴史ドラマを作っているはず
●だから正しいだろう

という先入観を持ちながめる。だからそれは日本中の歴史観を植えつけていることになる。

受け手は正しいと思うから、違うことを本で読んでも容易に信じなくなるだろう。

特に子供の頃から刷り込まれた大河的歴史常識は簡単には刷り込みなおしが効かないだろう。

しかし大河ドラマはあくまでも原作つきテレビ小説にしか過ぎない。
たとえその原作が大作家・・・吉川英次や司馬遼太郎でも、所詮小説は小説でまずもって史実などではない。弁慶など歴史上存在しないし、金売り吉次も蜘蛛の甚十郎も
空想の人物である。まして源義経も本当にああいう英雄だったかどうかすら定かではない。


もうすぐ終了する「平清盛」。

清盛を主人公にしたドラマなど、後にも先にもこれが唯一である。
すると日本人の清盛像は、今後、松山ケンジ演じた清盛像が子供たちに刷り込まれたこととなる。
頼朝もそうだし、義朝もそうである。
しかしそのすべては実はウソである。しかしそう思う視聴者など、よほど歴史に詳しい人だけである。

頼朝だって朝廷に擦り寄ったし、娘を天皇の嫁に入れようとして画策していた。
清盛は日本を貿易立国にいし、グローバル外交を推し進めた大政治家であり、大豪商である。

大河ドラマは時にただの芝居の焼き直し、軍記・戦記の焼き直しでしかない場合もあった。つまりウソである。日本ほどウソが大好きな、ウソの歴史でよしとしている国民はほかにいない。しかしそのウソの是認には罪がない。朝鮮のような白を黒にしてしまうような意図的。恣意的歴史観はまずもって日本人民衆にはほとんど皆無である。
イデオロギーや歴史観を論ずるには、あまりにわれわれは自分たちの歴史に無知である。世界に冠たる無知である。無知だからウソが許せる。ウソでいいとする。真実は求めない。過去を蒸し返さない。


NHKや小説家に責任感があるなしに関わらず、日本人は歴史上の人物の固定観念を大河ドラマに見出し、死ぬまでそれを持ち続ける。まずは大河ドラマというものがどこまで本当のことを描いてきたかというと、まずほぼ一割程度でろう。ほとんどはお芝居のおひれの部分である。ふくらませた作り話ばかりだったと言ってもかまうまい。

大河は古代史を扱わない。
一度も扱わない。
なぜなら古代史はほぼ日本史の中で、唯一といっていいほど真実があばかれつくしたジャンルだからだ。ドラマツルギーとしてのウソがいいにくいのが実は古代史なのである。考古学、系譜・系図、美術史分析、化学分析、状況環境考古学などなど、ありとあらゆるジャンルの分析がされつくしている。中世から江戸時代などそれに比べれば、まるで三文芝居で満足しているにわか演劇のような世界で、ウソでかためつくされてきた。まるでスーパーの魚屋の品名タグのようなもので、サケだと思っている魚は全部マスだったり、銀だらなどという存在しない魚名で安心しきって信頼しているような、客=主婦=無知が魚屋にとって常識だった世界なのである。つまり客が魚屋をうそつきにしたのである。


大河というブランドに胡坐をかいてねころがって歴史をながめている日本人。そんなただの情報に真実などあるはずがない。けれど彼らはNHKという大政翼賛会によって洗脳され、常識のウソを常識として今後も、自分たちをまったく知らない能天気なお人よし国民として、世界中から眉をひそめられながら、つぎの戦争に向かってリベンジを密かに誓っているのだろう。そのために実は無知が一番いいのだ。白紙だからこそ、ウソの歴史をたたきこまれると神話や皇紀2000年でさえ、本気にしてしまえるからである。



いずれ壬申の乱か乙巳の変はやってくださいね。日本で数少ないクーデターだからね。

飛鳥時代こそ大河ドラマにふさわしい時代だろう。
信長・竜馬なんぞ小さい小さい。
蚊トンボだ。




押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・