「古市古墳群のすぐ北側 大和川を挟む生駒山南端の山裾に平尾山の数多い古墳群の造営時期と時期をほぼおなじくする鉄の大生産基地「大県製鉄遺跡」が存在していた。

巨大な墳墓に代表される土木工事など種々の日本統一の事業には、人を動員できる実力とともに武器・工具など大量の鉄製品をはじめ、多くの物資が必要であり、それらを安定供給する生産体制が重要な鍵であつた。

この生駒・葛城の山麓 河内には 渡来人・豪族の本拠地があり、その周辺には 5 世紀半ばから 6 世紀・7世紀半ばにかけ、初期大和朝廷の確立を支えた数々の専業生産工房があった。

生駒山南端の位置にある大県製鉄遺跡は鉄製武器・工具を生産加工した大規模な専用鍛冶工房のひとつで、初期大和政権を支える中枢的な鍛冶工房。初期大和朝廷につながる河内の豪族がこの専業鍛冶工房を統率していたと考えられる

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当時 まだ日本では良質の鉄素材の安定自給ができず、需要が急速に拡大する中 朝鮮半島からの素材輸入路の確保と同時に鉄の自給に向けた模索が続き、早期大和政権の基盤を確立する上で鉄の支配が最も重要な時代。
日本統一の主導権を争って初期大和王家・豪族が渡来人・朝鮮半島諸国を巻き込んで幾多の政変があり、鉄の支配を通じて大和政権が確立していった時代であり、爆発的に鉄の実用が進む「鉄の 5・6 世紀」と呼ばれる所以である。
そんな中で 従来の製鉄技術に渡来技術を取込み大和中枢の専業鍛冶工房として鉄製品を加工供給してきたのが大県製鉄遺跡。古墳時代中後期 5 世紀半ばから 7 世紀半ばまで、150 年を超える長きにわたっきたのが大県製鉄遺跡。

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また、この遺跡から出土した羽口・鉄滓の多さは日本自給鉄の使用をものがたり、日本での鉄精錬の始まりの証拠とも言われ、大県遺跡はその意味でも重要な製鉄遺跡である。

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5世紀は日本では「讃・珍・済・興・武の倭5王」の時代。「宋書」倭国伝など中国史書などにしばしば日本が登場し、本州、四国、九州での支配権の確立を進めていく過程にある大和朝廷が、活発に中国・朝鮮諸国との交渉がおこなわれたことが記されている。その中心課題はまだ国内では自給できなかった鉄の入手である。


この頃、朝鮮半島では高句麗が北方で勢力を伸ばし、南部では百済と新羅そして南端の任那(任那・加羅)には紀には鉄の輸出国でもある小国の連合伽耶があり、大和朝廷は南部の諸国と交流を深めるとともに任那に拠点を持ち、北の圧力には百済と結び高句麗や新羅と戦った。また、朝鮮南部の軍事的指揮権と倭王の地位を認めて度々、中国に使いを送っている。

このような情勢のもと、5世紀には朝鮮半島との活発な交流の中、半島の戦乱を逃れ、数多くの渡来人がやってきて 鉄の鍛冶加工・製鉄の最新技術をはじめ、様々な新しい技術や文化がそれらの国々からもたらされた。馬に乗ることや硬焼土器の製作がはじまり、一部では文字も使われるようになる。仏教が伝来する。また、横穴式石室が近畿地方に伝わったのもこの時代のことである。

6世紀 任那は次第に百済、新羅に圧迫されました。遂に欽明23年(562年)任那は新羅に滅ぼされる。高句麗からの圧力に対抗するため、新羅・百済は日本に朝貢し、時には王子を人質として日本に残しています。推古天皇の御代、巨大化する新羅と対抗するため、600年と623年の2回新羅に出兵しますが、660年百済滅亡。最後に663年百済の要請により、百済救援の為出兵し、白村江で大敗し、それ以降朝鮮との国交は途絶えた。

このように 5,6 世紀朝鮮半島の鉄は日本統一と政権確立を進める大和朝廷にとっては朝鮮半島の鉄は生命線であったことが理解される。

一方 大量の鉄実用の時代 爆発的な鉄需要を支えるため 製鉄・鍛冶技術を持つ渡来人を得て、鉄の自給へ向けた製鉄法の確立や大量の武器・武具・道具の安定生産のため、専用の鍛冶工房が生産基地としてつくられ、初期大和政権を支えた。大県鍛冶工房はそんな中枢的生産基地である。」





「1.1. 古墳時代の墳墓 高井田横穴群と柏原市立歴史資料館 2004.7.21.
この横穴群は古墳時代の墓形式のひとつで山地や丘陵地の斜面を掘り込んで洞窟のような部屋を造り、数人の死者を葬ったもの。古墳時代後期になると巨大な前方後円墳のような巨大遺跡が姿を消してこの横穴式の石室がひろがる。

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5世紀に九州から西に広がり、近畿では 6 世紀この地の高井田横穴群が最も古い。生駒山地(生駒山、高安山、高尾山)の山麓、山の斜面が格好の墓域。

石室には木造建築の屋根・入口・柱などを模した細工や線刻壁画・彩色壁画がみられる。

高井田横穴は平尾山の大和川に面した南西山麓にあって合計200基ぐらいある。

線刻壁画を持つものは30基発見されている。

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特にこの地の横穴を同時代の横穴式石室古墳の特徴と比べると分布がこの周辺地域に限られ、また立派な副葬品がないことなどが特徴。この地域が大県遺跡など渡来系氏族の本拠地で大規模な専業鍛冶工房と重なることから、これらの有力氏族・渡来人の墓ではないかといわれている。

この周辺一体の街中が大県鍛冶工房遺跡であるが、まったく遺跡の中にいる意識はない。ただ、鐸比古(ぬでひこ)神社の名前にかすかに産鉄地のイメージが重なる。静かな参道をまっすぐに丘の中腹まで登ると鐸比古神社がある。緑の森の中に美しい社殿がある。もともとこの地にあったのでなく、もう少し北よりの平野地区の山麓にあったという。




             柏原市鐸比古神社

この背後にある高尾山には横穴古墳群がひろがり、銅鏡などもでたという。また ちょうどこの大県と反対側の東山麓の青谷・雁多尾畑には古代製鉄と関係深い金山彦神社・金山媛神社があり、鳴石・隆小僧など葦などの根本に出来る水酸化鉄や二上山の噴火灰の中の鉄分を使ったとの伝承もあるそうだが、あまり良い質のものは出来なかったと云う。



          柏原市金山彦金山媛神社

「鐸」「雁多尾畑」金山彦神社・金山媛神社などがあるこの生駒山の南端の地はこんな伝承から大県に古代大鍛冶工房ができる以前から たたら製鉄に先立つ古来の製鉄が行われた産鉄の地であった可能性も否定できず、大県に鉄の大加工基地が成立した理由かもしれない。



真弓常忠氏「古代の鉄と神々」によると「鐸・サナギ」と読み「鉄鐸」「銅鐸」は古代の鉄精錬と関係するという。鉄鐸の意で銅鐸も鉄鐸と同じ起源をもち、古代製鉄の原料といわれる鳴石・高師小僧(葦などの植物の根に吸い寄せられた鉄分が根の周りに堆積した褐鉄鉱で根がなくなると空洞ができ音がすることから、鈴・鐸がこれを起源とするとの説がある)


出土した鉄スラグと鞴羽口大県遺跡の領域を地図に重ねると本当に広い領域で、そこに約 150 年を超えて密集した鍛冶工房があった。 本当に畿内最大級の鍛冶工房である。」


蘇我氏が突如として日本史に「石川宿禰」が登場する時期と平尾山周辺の横穴古墳群は同時代の遺跡である。場所的にも蘇我氏本拠地だった大和川の支流石川の対面する金剛山地南山麓一帯であり、そこは蘇我氏の祖である武内宿禰子孫の葛城一族の本拠地でもあった。

葛城襲津彦は新羅南下で伽耶が滅亡するのをくいとめようと半島で活躍。その後、秦氏を引き連れて帰国し、秦氏や東漢氏も葛城周辺に一時的に住まわせたようで、蘇我氏もまたそのひとつの渡来集団だったと考える方向性はあるだろう。蘇我氏にはほかの在来氏族のような神社信仰の氏神はないという渡来系に似た部分がある。秦氏が渡来氏族でありながらいち早く日本在来の氏神信仰に深く関わったことと好対照を示すのが蘇我氏である(宗我津彦神社が存在するが蘇我氏との関わりよりも在地宗我の氏神か?要検証)。

高井田横穴はその古墳様式と線刻画、赤色顔料などから、筆者はまず北部九州の肥後に多い横穴古墳の海人系工人=倭人であると被葬者を仮定して考えている。それを大和学者は渡来系群集としたいようであるのは、どこかしら北部九州由来を書きたくない意図的表現ではないかと見えるが、どう見ても様式は熊本や九州広域の横穴古墳造形にそっくりなのである。ただ高井田の違う点は、九州の横穴墓ほどの豪華な経緯的副葬品をあまり持たないということで、これらが渡来系ではないかという見方を誘い出している。



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