●鑑真和上に随行した回教徒
「次は奈良に唐招提寺を建立した唐の高僧、鑑真が来日に際し帯同した随員三名の中にムスリムらしい人物が一名いることに注目したい。※「唐大和上東征伝」という史料中の天宝十三年(七五四)の記事にある胡人の安和宝(ママ・如宝。「東征伝」には苗字の「安」は書かれていないKawa)である。 (「東征伝」が「天宝十三年」とするのは唐の年号で、「続日本紀」の言う「天平勝宝六年 西暦754年」に当たる。Kawa)

もともと中央アジアのブハーラー出身者が中国では漢字で「安」の字をよく名乗るケースが多い。このブハーラー地方は史家の研究によれば六七四年以来しばしばイスラーム・サラセン軍に侵攻され七一〇年にはアラビアの有名な猛将クタイバ・ビン・ムスリムによって同地方は占領されモスク(回教寺院)も各所に創建されていたという。

したがってこの安和宝も、この頃にはムスリムになっていた可能性が強い(この記事筆者の推測に過ぎないKawa)。ではこの随員一二名(ママ・24名Kawa)の中の他の二名はどうであったろうか。

同伝によると、崑崙国人の軍法刀と謄(ママ・膽)波国人の善聴の二名となっている。前者は学者の研究によれば今のマレーシア地方で、後者は今のベトナム(インドシナ)にだいたい比定されている。だがマレーシア方面へのイスラームの教勢が浸透し始めたのは、ずっとこれより後世のことで、ヒンズウ教や仏教の勢力を駆逐して回教が定着したのは十五世紀頃であるし、後者は当時はむろんのこと今でもムスリムは割合い少ない土地である。

したがってこの鑑真和上の随員三名(ママ・全24名の間違いだろうKawa)のうちにムスリムらしいと思われるのは※安和宝(ママ・安如宝であるKawa)※ひとりだけということになる。

さらにこの「続日本書紀」の天平八年(七三六)十月の頃に※「波新人李密医(ママ・李蜜翳Kawa)等授位有差」とあるが、この人もペルシャ人のムスリムではないかと想定されるのである。

もうこの時点ではペルシャの国はこれよりおよそ百年近くも以前にイスラムに改宗せしめられているから史家によってはその研究の結果、かれは多くの回教徒中わずかに残されたマニ教徒ないしゾロアスター教(拝火教)徒か、ないし仏教徒ではなかろうかと、種々の関係史料を物色採用研究してそれらを考証されている。したがってこの李密医をただちにムスリムであると即断はできないがその可能性は大いにありうるのである。 」
参考サイト「伊斯蘭文化のホームページ」
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/index.html


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※引用文はかなり錯綜が見られるので、正しい史実を拾い上げておきたい。


※『唐大和上東征伝』(とう・だいわじょう・とうせい・でん)
概略
742年:栄叡と普照が揚州大明寺に鑑真を訪ねて伝律授戒のために渡日を懇請、和上が受託する。
 ①743年:誣告されて1次渡航は失敗。
 ②743年:2次渡航を企てるが出発直後遭難
 ③744年:栄叡が捕縛され3次渡海準備段階で挫折。
 ④744年:渡海のため陸行中、黄厳県禅林寺で官によって阻止され失敗。
 ⑤748年:栄叡・普照が揚州崇福寺に鑑真を訪れ五度目の渡航を乞う。 新河より出港し東シナ海で暴風にあって漂流、海南島に漂着する。海南島の地方豪族に支援され、土地土地で寺の復興や、律を講じながら揚州に戻る。
  この途次に一番弟子の祥彦と日本僧の栄叡が没し、鑑真自身も失明する。
 ⑥753年10月:遣唐使藤原清河らが揚州延光寺に鑑真を訪れて渡日を懇請する。
  11月16日蘇州「黄泗浦」を出港し、沖縄本島を経由して薩摩・坊津付近の「秋妻屋浦(あきめやのうら)」に上陸、太宰府を経由して難波から平城京に入る。

上記記事が引用する部分に該当するだろうその元記事

『唐大和上東征伝』

「天宝十二年十月廿九日戌時に龍興寺より出て江頭に至り、船に乗って下る。時に、廿四(24)人の沙彌(僧)悲泣して走り来て大和上に曰く。

「大和上、今、海東に向かわば重ねて(再び)お目にかかることができません。我らは今、最後に結縁に預らん」と。

すなわち、江邊(川辺)において廿四人の沙彌のために戒を授け、終わって船に乗って下って蘇州の黄洫浦に至る。相随う弟子は、揚州白塔寺の僧法進、泉州超功寺の僧曇静、台州開元寺の僧思託、揚州興雲寺の僧義静、衢州霊耀寺の僧法載、竇州開元寺の僧法成等の一十四人、藤州通善寺の尼智首等三人、揚州優婆塞潘仙童、
※波斯人宝最、如寶、
※崑崙国の人軍法力、
※膽波(チャンパ)国の人善聴、
総て二十四人。」

原文「〔原文〕和上於天宝十二載十月廿九日戌時、従龍興寺出至江頭、乗舫下。.........。訖乗船下、至蘇州黄泗浦。
    ・・・相随弟子揚州白塔寺僧法進、膽波国人善聴、都廿四人。」
http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/ganzinraizitu/shobun.htm

※チャンパは現在のバーガルブール。
「玄奘三蔵のインド旅行記「大唐西域記」(AD691年完成)第4章の中に、膽波国(チャンパ=campa)が記されている。ナーランダ大学からガンジス河の南岸に沿って東の方、現在の「バーガルプール」付近である。チャンパ国は小乗仏教国であると記録されている。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=XTzpkqT_xokJ&p=%E8%86%BD%E6%B3%A2%E5%9B%BD&u=www5e.biglobe.ne.jp%2F%7Etaikai77%2Fhotoke%2F2-8tengoku.PDF
ただしチャンパはその後メコン川に侵略したのでこの場合のチャンパがどちらにあった国だったかはそっちかも。


このように同行した弟子は24名で、そのうち西アジア人とおぼしき人は全四名で、ペルシア人=胡人は二名であり、その名前は僧名であるが宝最と如寶(宝)である。
この二番目に記載された「如寶」が、上記管理者が言う回教徒らしき?胡人=ペルシア人の「安如宝」になる。
ただし彼らがそのとき回教徒だったとは言えない。すでに鑑真の得度と受戒を受けておりそれ以前から弟子であるならば仏教徒であろう。要はさまざまな胡人の来訪はあるが、回教が来たとは言えない。来たのはあくまでもペルシア人なのであることはちゃんとらえておくべきである。

ササン朝ペルシアがサラセン帝国によって東アジアへ押し出されたと雖も、確実にムスリムだったのはムハンマドが生まれたサラセン帝国側であって、当時のササン朝は回教はない。
イランの歴史→http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b05_sasan/sasan.html

ちなみに唐招提寺建立の動機部分
二十一巻
「大和上の曰く。「大いに好し」すなわち、宝字三年(759年)八月一日私に唐律招提の名を立て、後に、官額を請う。此によって定と為す。また、此の日をもって善俊師を請して件の疏記等を講せしむ。立つる所のものは、今の唐招提寺是なり。初め大和上は中納言従三位氷上の真人の延請を受け、宅に就いてひそかにその土を舐めて寺を立つるべきを知る。」
『唐大和上東征伝』全文訳サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yurusu240/ganjin.htm


●安如宝
「如宝(にょほう、天平3年(731年)[要出典]- 弘仁6年1月7日(815年2月19日))は、奈良時代から平安時代にかけての律宗の渡来僧。出身地については不詳であるが、一説に、西域のソグド人。安如保・如保とも書かれる。
孤児であったが、唐の律宗の僧鑑真に拾われて師事し、鑑真とともに754年(天平勝宝6年)日本へ来朝し、東大寺戒壇院で受戒している。一時下野薬師寺に住したこともあるが、鑑真の死によりその委嘱によって唐招提寺に戻ってそこに住し、伽藍の造営と律宗の高揚に尽力した。797年(延暦16年)に律師、806年(大同元年)に少僧都に任じられた。「日本後紀」の卒伝によれば、戒律を厳守し、大国の風格があったという」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E5%AE%9D

●ソグド人はペルシア系民族で中央アジアの商人民族。
ウイグルに近いか?この中央アジア系民族というのはラクダでステップを往復してsまざまの貿易品を東西に運んだが、ついでに宗教や民族風習、騎馬、馬そのもの、景教やキリスト教、拝火教(ゾロアスター教)、イスラム教、ユダヤ教などなどなんでもかんでも持ってきた人々であろう。確実に中国やモンゴルや北魏や朝鮮半島の新羅などへ来ている人々である。アルカイックスマイルやエンタシス、仏画、壁画、騎馬遊牧、刺繍などを伝えた西アジア人の一角である。






●『続日本紀』波新人李蜜翳等授位有差について
「十一月三日 天皇は朝殿に臨まれて、詔して入唐副使・従五位上の中臣朝臣名代に従四位下を授けた。故(=死没した)判官・正六位上の田口朝臣養年富、紀朝臣馬主にはそれぞれ従五位下を贈り、准判官・従七位下の大伴宿禰首名、唐人の皇甫東朝、ペルシャ(波斯)人の李蜜翳らにはそれぞれ身分に応じて位階を授けるに差あり。」
斉明天皇の飛鳥時代に百済が救援を求めるための贈り物としてやってきた波斯人医師である。要出展
飛鳥のペルシア人→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094686.html


●そのほかのペルシア人
『続日本紀』
天平八年八月庚午(23日)(736年)
「入唐副使の中臣朝臣名代(なじろ)らが唐人三人、波斯囚一人をひきいて参内」


日本に直接来訪した西アジア人はこのように数えるほどであるが、その西方の影響というのは、かなりなものがあったと見ていいだろう。多くは中国経由で入ってくるだろうが、技術・絵画などの目に見える細かい意匠などは、やはり直接人が来て伝えた可能性が高い。渡来人などはみな通訳をしたり、外交官になるので、彼らともまみえる機会が多かっただろう。


疑問
日本人は邪馬台国人の子孫なのか、狗奴国人の子孫なのか最近わからなくなった。
蘇我氏や司馬氏・鞍作氏はペルシア人か?