◆山折哲雄の日本にしかない「いじめと若衆制度」の因果関係
「「いじめ」という名の妖怪が、大手をふって俳徊(はいかい)している。根が深いのか、いつでも地殻をつき破って顔をだすが、なかなか尻尾をあらわさない。いつも犯人探しがはじまるが、結局、原因も動機もつかめないまま、示談、和解、少年院送りなどの手続きをへて一件落着、そのくり返しだったような気がする。
 
そんな光景の中でいつも思いおこしていたのが、司馬遼太郎の考えあぐねた末の以下のような文章だった。それが氏の長篇小説『菜の花の沖』のあちこちにでてくる。江戸時代後期の廻船(かいせん)業者、高田屋嘉兵衛を主人公に、その生涯と事蹟(じせき)をダイナミックに描いた作品だ。幕府の命によってエゾ地の開発と貿易にたずさわるようになった嘉兵衛は、のちにロシア軍隊に捕えられてカムチャツカに連行された。が、持ち前の胆力と国際感覚を発揮して帰還に成功。日露の外交交渉に先駆的な役割をはたした傑物である。
 
 彼は瀬戸内の淡路島に生まれたが、その島の若者宿(若衆宿)で徹底的ないじめにあう場面からこの小説ははじまる。そのいじめの執拗な描き方に、作者のただならぬ気迫のようなものを感じて驚かされたことが忘れられない。今からもう30年ほども前のことになるのだが、その『菜の花の沖』(一)の「あとがき」(昭和57年)のなかでもそのことにふれて、印象深い言葉を書きのこしている。ちなみに、それが書かれた4年後の昭和61年には、東京の中野富士見中2年の鹿川裕史君(13歳)が教師の加わる「葬式ごっこ」のいじめにあって自殺、さらに8年後の平成6年には、愛知県の中学2年、大河内清輝君(13歳)がやはりすさまじいいじめにあって自殺している。
 
 今日の時点でそのころの時代の変化を追うとき、司馬遼太郎が高田屋嘉兵衛の人生をかりて、いじめの問題につよい関心を寄せていたことにあらためて胸をつかれる。氏によれば右に記した若者宿というのは、そもそも中国や朝鮮半島には存在しないものだった。が、太平洋に散在するポリネシア民族(ハワイ、サモア、トンガなどの住民)には、いまもその風習が濃厚にみられる。かれらは古代において太平洋の島から島へ航海して移動し、その活動と風習が日本の諸島に及んだのではないか。その基層は東日本に薄く、西日本において濃かった。面白いのはそれにつづけて、氏がつぎのようにいっていることである。それは制度としては大正期に滅びたが、意識としてはその後もつよく残存した。戦前の陸軍の権力構造を支えた陸軍省と参謀本部に行きわたっていた意識、将官と青年将校の関係、また陸軍の内務班の制度、さらには戦後の会社幹部と労働組合の関係、また既存権威構造と左翼運動のかかわり方、あるいは一部私立大学における大学当局と体育部の関係、などに受けつがれている。そしてここが重要な点であると思うのであるが、右のような日本社会の共通の意識をなすしんまでは、普通の社会科学の方法では解けないのではないか、とまでいっている。
 
 そのような若衆宿の世界はもともと平等主義につらぬかれていた。したがってムラの掟(おきて)を破るものがあれば、それを告発するものがかならず出た。もしもそのいじめ=制裁に反抗しそれに牙をむくものがあれば、それを集団の前につき出し、半殺しの目にあわせる。そのようなムラ的共同体はときに破壊的エネルギーを爆発させて逸脱者を破滅に追いやるが、そのエネルギーが逆に創造的な契機をつかむ場合がないわけではなかった。たとえば薩摩藩の若者宿「郷中(ごうちゅう)」と西郷隆盛の関係である。郷中には郷中頭という若衆頭がいて若衆を統轄(とうかつ)していたが、西郷は年少のころ、この郷中頭を慣例を破って何度もつとめた。西郷や大久保利通はこの郷中の若衆を同志として糾合し革命に成功するが、しかし新政府ができ上がったのち、西南の役において西郷はその郷中の組織原理に引きずられて自滅の道を歩むほかはなかった。それが「征韓論」による下野後の、西郷隆盛の運命だった。
 
 これは司馬遼太郎がよくいっていることだが、そのもう一つの実例が、さきにのべた高田屋嘉兵衛だった。かれは若者宿の掟に抵抗し、そこから脱出することでみずからを国際的交易者へと変貌させることに成功した人物だからである。若者宿で体験した苦難の感覚をもちつづけ、それを正のエネルギーに転化したのだといっていいだろう。それはどこか、脱藩して革命にいのちを賭け、最後に郷中の平等感覚に殉じた西郷のもう一つの運命を私に思いおこさせるのである。
 
 いじめの現象はいぜんとして、慎重に考えていかなければならない問題なのではないか。」
全文引用先真珠の小箱(182) 「若者宿といじめ 司馬遼太郎が強い関心/山折哲雄」
http://blog.goo.ne.jp/fukuchan2010/e/ccfb0b561ca68d7d5763a439f91c8c54
注※これは山折哲雄『さまよえる日本宗教』中公叢書 2004 で山折が触れている内容の日経新聞の紹介要約記事である。日経新聞記事は会員限定ゆえに上のブログから引用させていただいた。
日経新聞の該当記事
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO44269470Y2A720C1MZH000/

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◆若衆宿(若衆組)
日本中世以降、ポリネシアなどの諸島にのみ継続してきた村落内の小集団制度。掟制度。教化・馴致制度。
厳しい掟でしばりつけつつ、村のルールを叩き込み、心身ともに村の古いきまりごとに従わせる組織。
「苛烈な制裁と過酷ないじめ」(山折)を伴う。ここが半島の「花郎衆」とやや異なるところだろうが、いずれにせよ南島に散見した風習であることは変わりあるまい。半島花郎も若衆も諸島経由でやってきた文化か?ということは花郎も海人系風習の変化したものなのかも知れないことになるが。
 
現代日本の似たようなものでは町村の青年団とか、体育会系運動部の「しごき」とか、程度の相違はあれ、とりあえず小集団の構成員を「同じ方向へ向かせるための」「政治的なしごき」であって、司馬や山折が熱弁する「いじめ」とはやや趣は違う気もするのだが?
 
軍国主義時代の陸軍のしごきにも山折は触れている。確かに似ているのかもしれないし、筆者には東大紛争のころの赤軍派やオウム真理教などもまた、その終末期にはそうなりつつあったように見える。

男女ともにのことであろうが、人間は偏った集団を形成した場合、つまり男子のみの集団・女子のみの集団・近い年代のみの集団・同じ目的を持つ集団が、必ずこうしたしごきやいじめや掟を伴うのはAKBや女子プロレスなどを見ても納得できる。

いわゆる「学校のいじめ」というのは目的のあるしごきではなく、なんとなく「きしょい」というような「差別」の所産ではないかと見え、どうもそこには上記のような目的的な部分が欠落している気がする。つまりいじめとしごきは違うものではないか。
 
相撲の場合、けいこ土俵の上でのしごきはあくまで「しごき」で、それはけいこの一部であるが、稽古場を離れてねちねちやられる、あるいは稽古場にその気持ちを持ち込んでのねちっこいしごきはいずれもいじめになるだろうか?山折氏も司馬氏も当代一流の文筆家であるので、あえて強行に反論はしないが、どうもいじめようが違うような気がしている。
 
しごきの途中からいじめに変化する場合は確かに多かろう。
つまりこの場合しごきといじめが違う部分とは、最初は合目的的行為だったしごきから、それが常習化することで、当初の目的を逸脱、麻薬的な陶酔や憑依へと変じた結果がいじめである。だからいじめとは、当初から祭祀の範疇に入り、ということはしごきよりも生贄、人身御供、人柱に類するカテゴリーに入るだろう。だから自殺者が多い。理不尽だからである。しかししごきの場合、目標から逸脱しない限り、自殺よりもむしろやりすぎによる事故殺人や大怪我が多い。当人に目的がある限りは彼らに自殺は起こらないのである。過剰になった場合以降がいじめである。
 
一般的に言い換えるといじめは常習性を伴い、目的意識を逸脱した、あるいは最初から理由のない、いやがらせ行為であろうと感じる。それによって相手を教化し、制度になじませたり、鍛え上げたりする部類のものでないような気がする。若者の場合、「理由なき反抗」に対する新語としての「理由なき破壊」の一表現だろう。鬱屈と憑依と常習化を伴う蛇の生殺しに近いか?
 
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