大化薄葬令
(夫の死に伴う夫人の殉死禁止令の一部抜粋)
「これまでは人が亡くなると、自ら首をくくり殉死する者があったり、あるいは人の首をくくって殉死させたり、死者の持っていた馬を無理やり殉死させたり、財宝を墓に収めたり、死者のために髪を切り、股間を突き刺してしのびごとしたりするようなことが普通に行われてきただろうが、そのような旧来の悪習はいっさいこれを禁止する。もし違反して禁令を犯した場合、必ずその一族を罪することとする」

天智天皇の大化時代、そういう殉死作法があったことがよくわかる興味深い禁令である。
亭主が死んだので、その死を悼んで夫人が髪の毛を切り、さらに自傷行為として股に傷を負わせつつ痛みを共有し、死霊に語りかけていたというのが一般的だったようである。

自傷行為というものは、未開社会に多いが、キリスト教徒の一派にも、体中を傷つけて神に祈る行動をする者はある。
股間を突き刺すと言えば、日本の古代で思いつくのは、スサノヲがアマテラスの機織小屋にアメノフチコマの生皮を放り込んだときに、天の機織女が驚いて自分のホトをヒで突いて死んだ神話や、大物主のよりましである丹塗り矢が、厠のヒメの股間を射抜き子が生まれる話ではなかろうか。

大物主や鴨大神の神妻になったヤマトトトビモモソヒメやホトタタライスズヒメなどは、神の妻=神の生贄になった巫女を指しており、神婚=神への捧げモノであったことを言っていることになる。やんごとなき飛鳥・奈良の夫人たちも、そうしなければ世間的には許されなかった時代があったわけである。現代の妻とは大違いの理不尽な話だ。今なら、大喜びで遺産相続の話になったりする。えらい違いである。おっさんもなかなか安心して死ねぬ世の中ではある。

南洋の島々には、身内が死ぬたびに家族が指を一本ずつ切り落としてみたり、一本ずつ抜歯したりする風俗がある。これは日本の古代にもあった。弥生時代の甕棺墓から抜歯された遺体はよく出ている。また死んでから頭を切り取って家屋内の棚に飾ったり、肉をそいで一族で分配したりもあっただろう。血肉を分けるとはまさにこのことである。

大化薄葬令の前に、古墳時代にすでに殉死をやめて埴輪を埋めるために出雲から土師一族が呼ばれた記事は『日本書紀』にある。『魏志倭人伝』には卑弥呼の死に殉死する者奴婢百余人とある。イザナギが死んだイザナミを追って黄泉の国へ行くが結局妻は戻らず、かわりに禊して三貴子を生み出す話もあって、これなどは8世紀にはもう、死者は蘇らないという認識がしっかりと知識人たちに備わっていた証拠になるだろう。代わりにイザナギの五体を切り取って子供が生まれるのである。それは五体の各所に祖霊が宿っていたという信仰から来ている。

古墳時代も中盤になると、横穴式石室が採用され、何度も墓所に入れるようにしてある。これはつまり遺骸の完全なる分解を確認し、そのうえで遺骨を取り出して洗い上げ、再度埋葬した(洗骨再葬)風習が始まったことを表している。つまり帰るべき肉体を保持しようとしたエジプトのミイラの発想の時代が終わり、死者の肉体の腐乱はとめられないのだというあきらめから出る合理性の発露である。そしてむしろ王の肉がすべて溶けて大地とひとつになることこそが本当の死であり、そうなって初めて祖霊は昇天し一族の嫡子に降りてきて、一族の将来は約束されるのだ、という着想への変容が起きたと言える。

天智のあとの天武天皇の遺骸は、二年かけて肉を腐敗させていた。この期間がつまり「もがり」期間であり、のちに三年かけるようになったので「三年喪に服す」という言葉が慣用句になっている。遺骸から肉が溶けて、白骨だけになる期間が三年だった。この三年間、飛鳥時代なら推古女帝は夫のためにもがりをするのである。三年である。

持統天皇はさらに中国の合理主義を取り込んで自ら火葬された。
当時、火葬とは罪人の処分方法だった。霊魂が帰るべき肉体を焼いてしまうのだから、もう犯罪者は戻れないのである。
当時はまだ灰にできるほどの燃料がないから、焼かれた肉体はおそらく焼肉である。それを喰って処分するものがあった。
持統天皇はしかし灰になっている。遺灰は銀の壷に収められ、夫天武の石棺の前に置かれた。ところがすぐに盗掘され、銀の骨壷だけが盗まれ、灰は路傍に遺棄されたという。

中国でも日本でも肉体は魂と威力ある霊魂のよりどころであり、それを灰にしてしまうなどというのは考え付かないことだった。肉は大地に戻してこそ、祖霊はまっとうに蘇るものであった。しかし仏陀の仏教が火による霊魂の浄化という新しい思想を東アジアにもたらした。これもまた合理主義であるのは、死肉の腐乱による疫病封じでもあったことである。都市衛生上火葬は必要になるほどに人口が増えていたのである。密集した都市で古墳や土葬、あるいは死体遺棄が増えると、当然万病の元となる。それゆえに聖徳太子も天智天皇も持統天皇も、都市衛生上の必要もあって薄葬令や火葬を敢行したのだった。仏教伝来から数えて実に150年が経っていた。だいたい七世代ほどの時間が必要とされた。

埋葬の変容はそのまま死生観の変化になる。だから歴史上、これは重大な意識改革であった。

民間ではしかし明治初期まで、村落ではほとんどが土葬のままである。
だから疫病は絶えることなく、精神意識はまったく古代のまま続く。はっきり申して、何度も言うが、日本人が本当に末端まで近代生活が送れるようになるのは、つい戦後からなのである。白米の常食や掘っ立て家屋からの脱皮、肉食の定着・・・ありとあらゆる今の戦後以後の日本人が当然だと思っている生活・葬儀・家屋・食生活・衣服・文化のすべては、戦前まで古代とほとんど変わらなかったと言ってよいのではなかろうか?たったの70年前までである。おじいさんの世代まで、約三世代ばかりの時間である。明示から戦前の近代という時間枠などは、江戸時代よりはまだましだったというだけに過ぎない。古代だったのだ、西欧以外の世界中が。中国や朝鮮などは推して知るべし。1950年代、中国共産党は地方全域に広がる食人風習を数度にわたって厳しく取り締まる法令を出している。犬どころか人も喰う。それがちょっと前の朝鮮や中国だった。だから背伸びしたい。押し隠したい。今はまだ彼らはそういう古代の薄皮をかぶった状態であろう。精神の近代化が遅れているのはちょっと前までの日本もそうだった。売られた喧嘩を買うのではなく、哀れんでやればよい。

日本の少し前まで、いや今でもやる人はやるか?
「骨こぶり」という風習があった。火葬になった者、その前の遺骨を遺族のものが齧ったり、なめたりして死者を悼む風習である。あるいは遺骨の一部で酒を飲む風習は民俗学者の新谷尚紀が実際に父親の頭骨でやったことを書いている。
初代桂春団次などは棺おけの中の妻の、まだ死んだばかりの肉体を抱き上げて、死に装束をむしろとってむくろに抱きつき、あたりをはばからず嗚咽したと言う。愛とはそうした原色のものである。

今日でも、遺骸を喰う代わりに、ある地域では四十九餅とか笠餅と呼ばれる、死者の形を象った餅を食べる風習が残る。初七日や四十九日に去った人を惜しんで、その骨肉を象った餅を喰うのである。これなどは古代からの骨こぶりや肉の分配の名残である。そして神前にささげていた人肉のおすそ分けの伝統の名残でもあるだろうと脳神経学者の大西俊輝は書いている。(『人肉食の精神史』)


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