「アステカ族の人々にとって、神々を祭ることの行事は何事にも換えられない事だった。
そしてそれらの行事の祭りには彼等の守護神であるウィツィロボチトリに人間の心臓を捧げることが慣わしとなっていた。
儀式の日、祭りが最高頂に達する頃この日のために選ばれた名誉ある者が神官にかしずかれてピラミッドの上へと向かっていく、そこには太陽の光にまぶしく光る黒曜石の鋭いナイフを手にした神官が待っている。

彼の背に垂れた長い髪は過去何年にもわたって何十人、何百人と云う犠牲者の鮮血を浴び続け見るもグロテスクに固まっている。

選ばれた名誉ある民はピラミッド頂上の神殿の前に置かれた『生け贄の石』に仰向けに寝かされ4人の神官に手足を押さえられ、そして彼の胸からは太陽と同じ赤い輝きを持つ心臓が取り出される。
未だヒクヒクと動いている心臓はいち早く神殿内の神の偶像に捧げられその血は偶像の顔面に塗り付けられる。
一方なきがらは地上めがけて放り投げられる。
石段に血しぶきを散らして転がり落ちた死体は神官の手によって生皮がはぎとられる。
それを被った神官は人々の踊りの輪に加わり,
こうして祭りはクライマックスに達し人々は陶酔状態になって踊り狂う。
遺体はその間に切断され頭はは過去の犠牲者たちの頭蓋骨と共にツオンパントリと云われる晒し棒に並べられ、内臓は支配者の慰みの為の動物園の猛獣の餌となる。
そして犠牲者の太股の部分の肉がボソレの中身となって貴族の口に運ばれたと云う。

★ボソレ………とうもろこしの実をはじかせ、それを鶏肉や豚肉と長時間煮込む」
http://blog.goo.ne.jp/shi_mi3/e/542772334753013f1c3782c2d14f23b1



収穫祭での生贄儀式を描いたと言われるマヤのバレンカ遺跡・バカル王の石棺の蓋。
石棺浮き彫りは立てに見るもの。かつて無理やり横にして見て、これを宇宙船操縦席内部と言った学者さえいる。



アステカ・マヤの生贄台


アステカの儀式は春二月、この年の収穫を雨と水の神に祈るものである。一年の始まりを節分・節季の二月に求める点ではまったく日本の節分の追儺と同じである。一年が旱魃に見舞われぬように、雨の神トテックには、種まきの直前に、子供を生贄として捧げていた。充足した収穫を得るためには、充分な生贄を神に捧げねばならなかった。このため、やがて生贄になる家系さえ出現し、場合によっては順番待ちしていたことすらある。生贄はそれほど名誉のある、その子孫の繁栄を約束するほどの高価な、聖なる行いであった。神ために死ぬこと、族長の死のために殉死することほどの名誉はなかった。

やがて生贄には戦争の捕虜があてられはじめ、次には生贄のための調達遠征まで始まる。部族内から生贄を出しすぎると部族そのものが衰弱したからである。

捕虜は次々と神殿に引き入れられ、人をかたどった生贄台の上に押さえつけられ、黒曜石のナイフで胸を切り開かれ、まだ鼓動している心臓を抉り出された。心臓をえぐられた肉体は神殿の階段下へ蹴落とされ、下で待ち受けていた切り分け氏族によって分割され、部族ごとに持ち帰られた。そしてその肉は「分け前」「おさがり」として祭礼のご馳走となった。

日本の殺牛神事でもまったく同じだった。首を神に捧げられた牛の身体は、神殿から下の「祓い川(たいがいどこでも「はらい川」とか「清川」と名前がついている)へ落とされ、下で待ち受ける「きよはら」などと名乗るえたひにんによって切り分けられて持ち返られ、彼らのおさがりになった。


どの肉食獣から見ても、人間は、いかなる動物よりも捕獲しやすい生き物である。猿人・原人にとって、リスクの大きいけものを追うよりも、死肉ほど安易に手に入る肉はなかった。これは恐竜時代のティラノサウルスもそうだったと最近わかってきている。あのアンバランスなTレックスの体型で、草食恐竜を追いかけるのは重労働であった。つまりTレックスは進化するとどのような鳥になったかがここから想定できる。それはハゲワシのような死肉ハンター、ハイエナ鳥である。人間も往古、いや最近まで、神への生贄にかこつけて同胞の死肉を蛋白源とせねば生存できなかったのであった。

生贄の不十分な年、神は必ず荒れ狂い、死病や神風を起こし、自ら人を喰らった。だから生贄は始まった。

そしてイエスはそれまでの生贄風習をやめさせるためのローマ人為政者のスケープ・ゴートとして磔刑に処せられた。だからイエスを信じるあまりに多くの信者への言い訳として聖書にキリストの復活を書き加えたのである。それこそが延々と続いてきた古代民衆の悪習である生贄にピリオドを打たせるための作為である。イエスは愚かなおまえたちのために死んでくれて、そのナザレの王としての呪力がわれわれに新たな生命を持ち帰るのだ。それが復活だ。そうすることでローマ人は処刑をヨミガエリ儀式の最高のものとして正当化する唯一の方法だったに違いない。

イエスを聖人とし、彼が復活することで、イスラエルは再生されるだろう・・・つまりそれまで営々として生贄になってきた殉死者たちの身代わりになったのだ。それが復活=再生の建前である。実際にイエスの肉体が蘇ったり、千年後に生まれ変ったイエスが出現するのではない。それは「嘘も方便」の未来への希望を言い換えているだけである。民衆が絶望せぬように、ちょうど原発事故は大したことはないと思わせようとした日本政府のように、ローマの為政者は策謀したのである。

これが科学である。合理主義である。
そうしなければわれわれは今でも、生贄を探してうろうろし、女子供は家から出られずにいたかも知れない。そして素晴らしいことには、イエスはそれを見越して、自ら生贄となった、と喧伝されたことだった。
磔刑に処せられたイエスの十字架からは、しかし再生の卵型=アンクは切り取られ、そこに「INRI」の板がT字型に貼り付けられた。イエスの肉体も焼かれ、そして蛋白質にしたものがいたのだろうか・・・。その聖なる生命力を得ようとして。イエスの血と肉は今も信者の食べ物とされている。しかしそれはもう本物ではない。丸い白い薄いせんべいパンと赤ワインでしかない。



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