●「東方見聞録」
第五章 日本、南海諸島、南インド、インド洋の沿岸及び諸島

2 .チパング島
 「チパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。
 黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
 こ の島の支配者の豪華な宮殿についてのべよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲をこえているのだ。
(中略)
 これらの島がある海を「チンの海」とよぶが、これは「マンジの海」という意味で、チンとはマンジのことである。この辺をしばしば訪れ、十分経験をつんだ水先案内や船員たちのいうところによると、チンの海の東部には七千四百五十九の島があり、船がしばしばそこを訪れるということだ。これらの島はどれも沈香などの高価な香木や、種々の香料を産する。例えば黒胡椒を大量に産するほかに、雪のように白い胡椒もある。たしかにこれらの諸島では、黄金や宝石、種種の香料などの資源がゆたかなのだが、大陸からあまりにはなれすぎているので、運ぶことができないのだ。したがってザイトンやキンサイの船が危険をおかしても、とにかくそこへ行きさえすれば、大した利益をあげられる。
 こ の航海は普通、冬にでかけ、夏に帰ってくるので、一年かかる。風の方向が二つしかなく、一つは冬に大陸から諸島にふき、一つは夏に諸島から大陸にふくからである。これらの地域はインドからは非常に遠く、航海もながくかかる。この海はチンの海とよばれているが、やはり大海の一部である。

チパング島の住民はマンジやカタイ(ともに中国大陸)の住民と同じ偶像崇拝教の信徒である。崇拝している偶像も同じだが、これら偶像のうちのあるものは、牛の頭をしているものもあるし、豚、犬、羊などの頭をしたのもある。頭は四つ、またはそれ以上あるものもあり、それが肩の上にのっかっているものもある。手も四本のものとか、十本のものとか、千本のものさえある。千本の手をもっている方が、よけいに信仰されている。キリスト教徒が、偶像はどうしてこんなにいろいるの姿をしているのかと尋ねると、「私たちより前の人々がこのように伝えてきたので、そのままで後代に伝えるのです」と答える。こうして永久に伝えてゆくつもりなのだ。偶像の前で行なわれる儀式たるや、実に悪魔的で、とても紹介することはできない。

チパングでは(ほかのインド諸鳥でも同様だが)敵を捕虜にしたとき、身代金が支払われないと、自宅に親戚や知人をよびあつめ、捕虜を殺して肉をたべてしまう。世界にこれほどうまい肉はないといっている。チパング関係のことはこれくらいにしておこう。」
マルコ・ポーロ著・青木富太郎訳『東方見聞録』社会思想社 昭和44年

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『東方見聞録』の日本記事はあくまでマルコの中国での伝聞であって、どこまで信憑性があるか知れない。香木や胡椒などとれるはずもないし、島々がそんなにあるはずもないのだが、マルコは大真面目で聞き取った事を書いている。
マルコ・ポーロの生きた時代は日本ではちょうど武士の時代の鎌倉時代あたりである。
日本を黄金の島と中国人が見ていたのは、その時代の奥州藤原氏の貿易で砂金が大量に交換物資に使われていたからにほかならない。まして偶像が千手とか牛の頭とかいう記事などはもともとは中国伝来の千手観音や牛頭天皇だから、なぜそれが中国で珍しいのか見当もつかないし、また羊頭・狗頭・豚頭の仏像などありえず、まったく馬頭や牛頭から考え出された空想に過ぎない。聞いた相手がおそらくあまり品性よろしからぬ海の住民だったのだろう。

ここで問題にしたいのは、最後に書かれた「儀式が悪魔的でとても紹介できない」とか「捕虜を殺して肉を食べる」といったまるで異界の夜叉のごとき書きっぷりである。

マルコ・ポールも、うわさを聞いた相手の中国人たちも、倭人を人食いだと思っていたようである。その野蛮さの大元はおそらく鎌倉の坂東武者たちの骨肉をかけたいくさ好きから来たかと大西俊輝は書いている(『人肉食の精神史』1998)。
『見聞録』はイエスズ会を通して多くの宣教師や知識人が読んだから、あとの信長の時代になっても、彼の残虐さには宣教師たちも大いに納得したことだろう。少なくとも民間でも、まだ堕胎や間引きは平然と行われ、旱魃があれば共食いもされていたであろう。

もちろんこうした凄惨な事件は日本だけでなく、世界中でまだ存続していた。それは中国も西欧も実は変わりないままだった。ただキリスト教では早くから人を生贄にする儀式は禁忌されたし、人肉食は悪魔・魔女の所業としてこれも嫌われていた。

●しかしモンテーニュの書いた『エセイ』(16世紀)には、
「私は死んだ人間の肉を食うよりも、生きた人間を食うほうがずっと野蛮だと思う。まだ十分に感覚の残っている肉体を責め苦と拷問で引き裂いたり、犬や豚に噛み殺させたりするほうが、(われわれはこのような事実を書物で読んだだけでなく、実際に見て、生々しい記憶として覚えている。それが昔からの敵だけでなく隣人や同胞の間にもおこなわれているのを、しかもなおいけないことには、敬度と宗教の口実のもとにおこなわれているのを見ている。)死んでから焼いたり、食ったりすることよりも野蛮であると思う」(第三十一章「」)
とあり、16世紀西欧においてもまだ、地域によってそうした古い慣習は残存していたようではある。

意外なことかも知れないが、人間を神に食わせたりする人身御供や、部落内外の人肉を刈って来て生命力を得ようとする供儀儀式(カニバリズム)、またそれとは別に飢饉で人を喰う行いは、けっこう最近まで世界中に残っていた。西欧諸国でも、キリスト教が広まっていた都市部の、都会人だけがそのような野蛮な人食い行為を「もうあり得ない」と見ていただけのことである。

「もうあり得ないだろう」という思い込みは、現代人の口からもよく聞こえることがあるが、その対象は例えば被差別部落への差別行為などについてよく聞くことができる。つまり現代人の無知と驕りがこの言葉になって都市中心部でのみまかりとおっている。それが本当に戦後日本でなくなっていたのなら、60年代に岡林信康が「私の好きなみつるさんが・・・」と歌う必要はなかったはずである。

私の好きな みつるさんは
おじいさんから お店をもらい
二人いっしょに 暮らすんだと
うれしそうに 話してたけど
私といっしょに なるのだったら
お店をゆずらないと 言われたの
お店をゆずらないと 言われたの
手紙 岡林信康
視聴→http://umeland.air-nifty.com/blog/2007/11/post_9ceb.html

2・3に続く


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