西欧の歴史学では、久しく日本には中世がないと考えられてきた。
その理由の第一は、古代信仰の神が民衆単位でいつまでも信じられ、国家的な宗教改革がなされなかったことにある。
前のページで書いたとおり、『日本書紀』の天武と持統のアマテラス信仰という日本最初の宗教改革は実際にはなしえていなかった。聖徳太子の仏教による宗教改革も、やはり民衆単位にまでは及ばず、不完全に終わっている。

そして仏教はあくまで日本人の葬儀様式としてしか民衆には浸透せず、現代においても、相変わらず一部民衆は縄文時代からの大地母信仰を置き換えた女神信仰のとりこである。アマテラスも古代太陽信仰を日本人好みの女神信仰に変形させただけのもので、日本最高神と言われながら、結局のところ民間の祭りは古代からの荒神を慰める冬の追儺と夏の祇園に終始する。追儺(儺追い)行事は祖霊の鎮魂と再生祈願であり、祇園はサンスクリットのヒンドゥーの荒神鎮魂である。つまり民間・地方の祭祀とは、今もなお、古代から連綿と続く縄文の荒ぶる神=自然災害と虫送りと疫病退散でできあがっており、地方神社の神にアマテラスは常に配神の扱いなのであり、主たる祭神は必ず土着の大地母神や土地神、歳神なのである。

われわれは中世と言えば武士の台頭した時代だと教わってきた。しかしそれは政治的王権の移動だけのことで、信仰という国家哲学(アイデンティティ)の根幹部分である宗教改革はまったく起きてはいないのだ。わずかながらに王となろうとした織田信長や、権現となった徳川家康にその片鱗を見るが、信長は殺され、日光東照宮もまた伊勢・出雲ほどの日本人の信仰の中心にあるとは言えない状況である。

まして伊勢でさえ、前述したように、明治政府の帝国主義の傀儡とされたばかりで、民間ではまったき国家の唯一神になれぬままである。今、伊勢を訪れる参拝者の大半はやはり江戸時代と同じ観光客の物見遊山がてらなのであり、ほんの一部の宗教に傾倒したい信仰心厚い?マニアの神でしかない。

だから日本には中世はなかったと西洋キリスト教信者たちは優越感とともに吐いて捨てるのであろう。

記紀の神々の名前に置き換えられた神社が、関西には多い。
これは記紀に合わせなければ中央近辺つまり畿内では存続できないからであって、実際の神は古代からの自然神である。証拠はご神体の多くが縄文からの石神や木や山であることからあきらかである。
これは神名を交換しただけに過ぎない。
氏子たちは知ってか知らずか、もとの神を敬い、もとの神に供物をささげ、元の神のために鎮魂の祭りを執り行う。これが「オコナイ」である。

あの出雲でさえ、元の神もよくわからないが、アマテラスは祭らないし、伊勢に次ぐ神宮である鹿島神宮や香取神宮や春日大社でさえアマテラスは主神ではない。
それぞれの地域、氏族が祭っていた記紀以前の氏神を祭り、スサノヲでさえ最初からそこに在った神ではない。

つまり日本の民衆は賢いのである。
そして歴史をそれとなく知って、言い伝え、あるいは感じてきたのだろう。

国家の言うがままにはならなかった。
太平洋戦争まではだ。





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