古い土着信仰は洋の東西を問わず、中世までに、過去の俗信であり邪教であるとされていった歴史がある。

カトリック・キリスト教は原始ユダヤ教や拝火ネストリウス教やヨーロッパの土着の信仰を邪教とし、それを信じる先住民たちを悪魔・魔女であるとせねば生き残れなかった。キリストはそのようなことを言ってはいない。
やったのは初期キリスト教の持っていた原始信仰の残存を不都合としたローマ人である。

それらの古い信仰とは、神へ生贄を捧げ、大地を母とし、陽物と陰物がすべてのいきとし生きるものを生み出すのだとする信仰形態である。いいかえればそれはユダヤ教や神仙思想や道教やヒンドゥー教のような多神教である。

ローマ人たちはギリシアの古い信仰を不都合とし、一神教を推し進めるために、キリストを聖者とせねばならなかった。それはローマの政治的押し付けである。


魔女は箒に乗って空を飛ぶが、そのアイデアは東南アジアのガルーダや東アジアの天女や、インドのキンナリーと同様の、「あちらとこちら」「異界と現実世界」「天界と地上界」の「垣根を自由に越える」存在である鳥のイメージだった。原始信仰では鳥はたましいを運ぶ聖なる神の使いだった。それを中世のカトリックでは空を飛ぶ魔女としたのである。神と魔を分けようとした。

しかしそもそも悪魔メフィストフェレスが「墜天使」だったように、魔物は愛のキューピッドだったのである。それが古い土着の信仰観念であるから、悪魔を作り出した。
悪魔が羊の姿であることは、それがもともと北欧の牧羊の神・パンだったことを示している。パンそのものに悪魔のイメージを植えつけることで、古い北欧の俗信は邪教であるとしたかったのである。
ゆえに悪魔には山羊の顔と異界の天空を舞う羽がつけられる。
シュメールのリリトにもオデュッセウスのセイレンにも羽と三つ指の鳥の足が描かれている。

「なにゆえに子を孕まぬ女性たちは、前世紀において洋の東西を問わず、さげずまれてきたのか?
西欧においてはそればかりか、ある時代にはそれは「魔女」とされ、死罪の目にあってきた。
なぜだ?
国家と宗教が結びついていた時代、子孫を造らない(造れないのではない。しかし往古はそれが混同された)母、結婚しない女(ユダヤ教)は悪魔のような存在だった。結婚せず、子を産まぬ女性は、国家の敵だったのである。

ダ・ヴィンチコードの中に次のような言葉がある。

「ユダヤ人の慣習では、独身男は非難され、息子にふさわしい嫁を見つけるのが父親の義務だった」
ゆえに
「イエスが独身だったという聖書の通説はまちがいであり」
「マグダラのマリアはイエスの妻であった」

と言いながら、登場人物はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に描かれた弟子ヨハネの肉体が女体=マグダラのマリアであることを証明してゆく。
そしてその言葉が既成のキリスト教社会では
            
                   アンチ・キリスト=異教徒・悪魔の言葉
であるとしている。

古代ユダヤ社会で未婚・無出産が猛悪な行為とされた。
つまり「子を喰らう」サトゥリヌスに匹敵するモノとされた。
それは英語でサタン・・・。
女ならばウイッチ=魔女ということになる。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52367375.html



魔女にはふくろうの絵柄がつきまとった。



ふくろうは、日本でも「夜飛び回る鳥」「血肉を食らう鳥」として「ヨタカ」「売春女」とされている。ふくろうを名前にされた皇女が飯豊青皇女である。
休留 フクロウと怪異 →http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52547191.html

子を生まず、逆にわが子をも食らう=無生産こそが国家の敵であるとしたのが中世社会だった。古代からの過渡期の思想がこれである。中国では孔子が現れ、子女とは子を生むものであると決め付けた。子を生まぬのはバイタである→魔女である、となる。

だから空を飛び、子を食らう、それは古代の神=自然の猛威と同じ存在、つまり邪教の神であるから殺さねばならぬ・・・カトリックの思想はこれで貫かれている。


「もし人の子の肉を食べず、その血を飲まぬなら、あなたがたは生命を得られない」ヨハネの福音書6-14

「人の子」とはイエスのことである。その血を飲むとはキリストの血であるワインを飲むことだと、今では変えられているが、本来の原始キリスト教では血は、本当の生贄=わが子の血液だった。それを否定しなければならない。しかし、ヒンドゥー教でもタントーラでも神道でも、生贄は本来人間の子供であり、動物はその代わりに過ぎなかった。これは南米・中米のケツアルコアトルへの捧げものもまったく同じであり、神殿には生贄の心臓を抉り出すための台が据えられていた。

神への供物は神の犠牲となる人間自身の、「転ばぬ先の杖」だった。神が怒る=大風や地震や洪水、前に前もってささげられた血こそが生贄の本義である。これが「贄を請う神=荒神の本性である。しかるに中世のキリスト教や儒教は、これを戒めた。しかしその原始性はヨーロッパでは冬至祭や五月のメイポール祭りに残ってしまう。消せなかったのだ、そうしても民間信仰が。クリスマスは冬至祭りの精霊を覆い隠すために作られた苦肉の妥協策だった。
もうひとつのクリスマス→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/archive/2011/12/24





大地母はやがて男性の陽物とも合体し、やがて羽を持つ邪宗の異物とされてゆく。
ところがそれこそは羽を持ち、祖霊を持ち帰る=ヨミガエリ思想の象徴であり、寿命の短かった古代の継続してきた生命の象徴だったのだ。しかしキリスト教は復活はイエスだけの特権として、イエスの聖性を大きく打ち出した。万民にヨミガエリはおこらない、そう高々と宣言し、先住民とその信仰、生活のすべてをローマにあわさせようとした=最大級の冒涜と差別。これが新しいカトリックキリスト教の始まりである。

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