秦氏を研究して見えてきたことは、「氏族」というものの姿だった。
それは血縁的な集団ではないのであり、縦型の階級世界だということ。

氏を名乗る支配者層がいて、その下に部民がおり、その部民を管理する「おさ」・・・「人」と言う・・・が中間にいる。
秦氏ならば、秦氏・・・秦人・・・秦人部・・・秦部   がある。

それらの間に血縁はあまり関係がない。たんなる会社組織だったと思えばよい。
中には在地の先住有力氏族との婚姻でつながり同族と自称する場合もあるし、あとから入れられた渡来系組織との合体もある。

これは秦氏に限ったことではない。物部氏も蘇我氏も藤原氏も同じことである。


ということは彼ら氏族の社会や信仰を学ぼうとするときには、まず、階層別に別々の分析が必要になる。
最下層にいた部民たちは、主人とはまったく別の、下層は下層なりの解釈をしていき、それがいわゆる民間信仰である。その中から離脱者が生まれ、神社に巣食うものが現れる。これがいわゆる最初の被差別民になってゆくのである。神人・犬神人(じにん・いぬじにん)などと言い、ここから芸能やえたひにんが生まれていったのである。

氏族が渡来系であった場合、その差別にも、階層ごとに違いがある。
氏族への差別は渡来ゆえの差別であり、それはあくまでも宮中や朝廷機関の中での差別である。次元が高い世界での差別であるから、民衆は知らないことである。後世、武家が公家に見下されていた、そういう次元のことである。

ところが部の離脱者への差別は個人的で、根が深い。
武家がいくさなどのきっかけで朝廷内で台頭できたのに比べ、民間被差別民の台頭など、本来ありえない。例外は商売や芸能や絵画での人気者・成功者になることしかなかった。これはアメリカの黒人やジプシーやユダヤ差別と同じである。

お国歌舞伎・能狂言・歌舞伎・楽士・放浪のザトウ・芸人・画師などなどがこれにあたる。


民間には民間でしか生まれ得ない信仰があって、それが秦氏なら「大地母=ダキニ天」から、その乗り物である九尾の狐が切り離されたのであった。


こういう氏族と部の区別を細密にしていない研究者は、すべてを円の中にいれてしまい情報過多となって、結局何も見えずに死んでしまう。そういう人の書く文章や解説は、すぐに見てわかるもので、本人が何を言っているのかが見えていないのは、一目でわかる。
やたら難しい権威主義に走った怪文だからだ。

本物を見分ける目とは、明確な階層の違い別に研究してきたかにかかっている。
人間も氏族も一種類であったはずがないのだ。まずもってそこがすでにわからない権威が多くて、あきれてしまう。



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