「皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考え
ている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとし
ても、それは元々大和にあったのだという発想である。特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。」
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こういう大和の学者の考え方がいわゆる「大和至上主義」「『日本書紀』至上主義」なのであり、彼らの多くの言葉から醸し出されるどうしようもない意図的な雰囲気の元なのだ。上田正明や森浩一らのように、これからはなんでもかんでも大和を中心にした・・・つまり『日本書紀』言辞の悪影響を受けてきた古い史観を捨てて、地域地方からの視線が重要なのだろう。

江戸時代、本居宣長の史観もよく似ていた。徹底的な儒者であり、国学=日本至上主義=右翼的な考え方で、出雲や邪馬台国論を恣意的に決め付け・紋きり型で切り捨てる。

「しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。
渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。
大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとん
でもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中
にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。」
同サイト

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それとは反対に、ここまで出雲寄りになるとそれは行き過ぎた郷土愛になってしまう気もする。

ものごとは中央寄りでも地方に寄り過ぎるのでもなく、中庸の立場で考える必要がある。

さて、茨城県の考古学者・茂木雅博(もぎ・まさひろ)は面白いことを言っている。
『常陸国風土記の世界』同成社 2011
「出雲の豪族は大和政権に容易に屈しなかったので、大和はいま出雲大社に祀られている大国主命を派遣するわけですが、熊野大社を中心とした古い勢力が大和政権に反旗を翻(ひるがえ)します。その熊野大社が意宇(おう)郡にあります。」

さて、いかがしたものか?
諸氏の常識では出雲大国主とは、大和政権に出雲を譲った国譲りの主人公で、出雲の国つくりの神だと信じてこなかっただろうか?この意見は果たして例によって大和至上主義から出た学者の常識なのだろうか?島根県民ならならばあきれかえることにもなろうが、筆者自身も昨晩、眠りながらこの一文について考えてみた。

本居宣長のような考え方ではあるまい。
かといって茨城県生まれの茂木がそのような大和寄りな学者なのか?
行き着いたのはこうである。

1 大和朝廷は出雲を征服したと『日本書紀』に書いた。
2 それで国司としてアメノホヒを祀る国造(こくそう)家を送り込んだ。
3 熊野大社がこれに反発した。
4 それで意宇郡熊野の人々は紀伊国名草郡に流され、のちに熊野に入った。
5 これがもともとの出雲の民間が信仰するスサノヲを信じる人々であった。
6 これが国譲りのひいとつか?
7 国造家にはオオナムチという国つくりの神の信仰があった。(意宇名持ち?)
8 国造家は最初地元豪族諸氏の抵抗を激しく受けた。これが神話の大国主の兄弟神からの殺害ではないか?
9 『出雲国風土記』の提出が20年も遅れた理由は、地元がなかなかまとまらなかったからだろう。
10 出雲大社の神がそもそもはスサノヲのような荒れる祟り神であったとするほうが、原住氏族だったはずの半島由来の人々や海洋民族たちに受け入れられやすい。なのに大国主が突如登場し、それが負けたことにされて出雲大社に大国主として祭られ、天神五柱の監視下に置かれた。スサノヲは南を望む天子の位置に素我社として追いやられたが、消されてはいない。
11 そうでなければ大国主が大和の三輪山に祭られるのは理解が難しい。しかも大物主と大国主は同根・同体神となっている。
12 三輪山から葛城にかけて出雲氏が早くからいた。



日本海側をかつては「裏日本」と言った。『日本書紀』でも山陰を「背の国」と表現している。確かに気候風土では瀬戸内や太平洋気候と比べれば山陰・日本海側は「陰」である。これは認めるしかない。しかし文化の受容の順番として、日本海側は大陸に向かって表玄関なのである。それは九州の玄界灘も同じことで、九州の中で福岡や佐賀や長崎は「日本海側」であり、北部であり、天候も寒々とし、夏は渇水ばかりしている地域でしかない。しかし中国や半島から見れば玄界灘こそが日本の表玄関である。

日本列島メビウスの輪とでも言おうか・・・。
一般的に、日本人は博多は九州の表であると感じるのに、島根や鳥取や若狭や福井や新潟は裏なのだ。そして北海道まで行くと今度は札幌が西にあるので表になる。
ねじれの構造である。
太平洋側は陽で、どこもかしこも表かと言えば、東九州や和歌山や三陸海岸などは気持ちの上で裏ではあるまいか?
ねじれている。ではどこが陽なのか、表なのかと言うと、福岡~瀬戸内山陽~近畿~愛知~東京を結んだ太平洋ベルト地帯だけなのではないか?

出雲は国譲りさせられたが、本当はそのときそこにいた神は本当に大国主という名前だったかどうか?

こういう逆転の発想は、ひとり大和中心主義のためだけにある訳ではない。

もう少し、結論は出さずに、この着想を頭の片隅に置いておこうと思う。


押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・