かつて住んでいた京都市南部から綴喜郡・相楽郡を、遠くから眺めつつ、大阪府に住む代行者ダダさんに巡っていただいた。


 
 
 


 
筒木の「つつき」は筒状の木だから「竹」由来地名であろう。
竹が繁茂していたので筒木。それが宮ができてから筒城に変化。
その地名を名にしているのが息長氏の先祖の大筒木王である。

今の綴喜郡地名は「つつき」からきているので、大筒木真若王が琵琶湖からおとなりの宇治をこえ、木津川を超えて南下してここに住み着いたときにはすでに筒木地名があった、あるいは彼が名づけたのどちらかになる。息長氏の系譜の大筒木王の登場は、神功皇后の祖先として書かれてあるのだから、それは推定すると3世紀前くらいに起きているはずである。
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    八幡市内里の内神社

また、筒木がもし竹由来地名だとすると、これを持ち込んで移植したものがいなければならない。竹は太古、日本本土にはない南洋植物である。これが最初に生えたのが鹿児島県あたりであるから、誰か持ち込んだ人がいる。それが隼人である可能性は、彼らが竹篭を編むという風俗からまず間違いない。

するとまさに山背の大住には隼人がいる。

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大住月読神社

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隼人舞い発祥の地の社伝

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大住車塚古墳

ではその隼人(この場合先行した阿多隼人)はいったいいつごろから大住に住んだのか?
780年7月の続日本紀に、『筑紫の大宰は、西海に僻居して、諸蕃朝貢し、舟楫相望めり。是に由りて、士馬を簡練し、甲兵を精鋭にして、以て威武を示し、以て非常に備ふ』が最古で、その前は果たしていつごろから阿多隼人が大和や畿内に来ていたかはあきらかでない。
これでは隼人が今の大住郷に竹苗をたづさえて入った正確な年代がわからない。

神話が正しいとするなら神武東征に、妃側の南九州先住民が同行したとなっている。それが真実なら3世紀より前から隼人は畿内に来ていることになる。しかし神話は神話である。

息長氏の先祖伝承も、いわば氏族間神話であって、真実とは思えない。神功皇后そのものが創作されている。『日本書紀』などの正史も、有力氏族の伝承が、割とそのまま引用され、8世紀の人々の知識でしかない。考古学的にはどうなのか?
そこをもっと知りたい。

豊前地方の考古学でさえ、隼人の痕跡である地下式横穴や蛇行剣の埋葬は古墳時代まで降りてしまう。その隼人が同じ九州の豊前よりも早く大和や山背に入ったかどうかはやや?になる。

ただ、隼人には縄文時代からすでに貝を南北海道の苫小牧まで運んでいたという証拠も存在し、行動範囲は広大で、時代も一気にさかのぼる。
竹には年輪がないから、いつごろの竹なのかも知るすべがない。

息長氏の神社として宇治小倉(巨椋)に朱智(すち)神社がある。宇治は「うち」起源地名なのでここも隼人や宿禰内臣系譜の土地であり、すぐ北側がもう大津である。息長氏が瀬田から宇治川で南下した唯一の証拠がこの神社になる。
ならば、木津川の対岸に位置する綴喜郡や精華町や相楽郡は目と鼻の先。しかし橋がない。今あるのは時代劇でおなじみの「流れ橋」だけである。
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朱智神社

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巨椋神社

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巨椋神社木地師来訪の跡


宇治の小倉駅から南に巨椋池があった。
ここからは船でないと渡れない。
息長氏ならそれは簡単であろう。
いや、むしろ息長氏とは山背筒木から琵琶湖へ出ていった集団だった可能性すらある。
息長氏が琵琶湖東岸を根拠地にするのは継体大王の頃かと思える。日本海~百済ルートの開発は息長氏によったものと見ていい。するとどう考えても息長氏を3世紀以前から大和・畿内に来た氏族とは思えなくなる。早くてせいぜい継体大王直前か?その頃にはすでに大住に隼人が来ていなくてはならなくなるのだが?

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朱智神社


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画像はダダさんの管理者より


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