歴史から隠された渤海使と新羅使

1 渤海使
●渤海国



「渤海(ぼっかい、698年[1] - 926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)


●靺鞨
渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とあり、人種的には靺鞨=
粛慎,挹婁(しゅくしん・ゆうろう)の末裔である。
「靺鞨(まつかつ、拼音:Mòhé)は、中国の隋唐時代に中国東北部(現在のロシア連邦・沿海地方)に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎,挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8

●人種と言語
諸説あるがツングース系あるいはギリヤ-ク系に説はわかれる。アイヌとの同族説も有力である。
言語的には女真族とほぼ同系統とされ、ツングース系語彙に近い単語を用いる。おそらくこれらのバイカル湖起源?あるいはキルギス方面からやってきた遊牧民族のいくつかの種族の混在した集団か?

●渤海使・遣渤海使
渤海からの来訪者は最古の記録は『日本書紀』欽明紀にあるが、おそらくそれよりはるか以前から日本の東北日本海側や北海道には来訪がひんぱんにあったと思われる。
正式な交流は727(神亀四)年から~919(延喜十九)年の間に正式な渤海使としては34(非公式1)回、遭難したり難民としての漂着・来訪は数え切れないほどあったようだ。
日本側から正式に遣使を送ったのは728年~811年までで十五回を数える。
遣唐使の派遣回数がわずかに12回であったことを考えれば、はるかに文化的影響力はあったはずで、しかしながらまず学校では遣新羅使などとともに軽く流してしまう傾向にある。渡来文化に造詣の深い歴史学者の上田正明はこれを大いになげいている(『歴史のなかの人権』2006)。

「学界の一部には、日本海沿岸地域への上陸はその通過点に過ぎないとする批判があった。はたしてそうであろうか。渤海使を藤原緒嗣(おつぐ)が「商旅」とみなしたように、、民間の市での交易をしたものも多いが、入京を拒否された渤海使は、上陸地あるいは帰国の出発地であった日本海側の地域にかなり長期に滞在し、実際に各地の人々とまじわりをもった使節もあった。」上田正明

たとえば難民であっても、746年には千百余人が、779年には359人もの来訪が記録されている。
その人種的混交が例えば白人DNAの顕著な秋田(当時はあぎたという)などに子孫を残した可能性は否定できない。
つまり渤海国の人々の血脈には、ギリヤークやツングースのもとになった、西アジアカスピ海地域での白人との混血から生まれるスキタイの血潮が確かに存在したのであろう。スキタイは以前書いたように、西欧では英雄ヘラクレスとして名を残している。ヘラクレスは黒海人スキタイと地中海ギリシア人の父母から生まれた、いわば最古のハイブリッドである。つまり地中海の白人種たちは、西ジア人種との混血を往古からそれとなく認め、そこから遊牧騎馬民族が出たことも知っていたわけである。中央アジアへ出た原人と西アジアへ出た原人の邂逅とクレオールは、カスピ海のほとりで起こった。


2 新羅使
●新羅国
「紀元前後の朝鮮半島は元来、粛慎、挹婁、靺鞨、沃沮、倭、濊、濊貊等、各諸民族の混在地域である。 その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される。
百済・任那・伽耶・新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから一定数の倭人が同地に居住していたとされる。また新羅王族の昔氏が倭人とする説もあり、日本による支配を受けていた時代もあることから、新羅の重臣には倭人が多数登用されている。[89] 更に4世紀後半から6世紀前半にかけては、騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の流入もあり、建国から滅亡まで時代により民族構成も変化している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85#.E6.B0.91.E6.97.8F



「遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。
日本(倭国)は4世紀に新羅を「臣民」としたことが「広開土王碑」に見え、451年(元嘉28年)には宋から済が「使持節都督新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」(『宋書』倭国伝)にされるなど、一定の交流関係があったことが推定されている[1]。『日本書紀』によると、6世紀、新羅真興王に伽耶が滅ぼされるなど極度に緊張した日羅関係下にも、新羅から倭国へは任那の調の「朝貢使」や高句麗使の送使などを名目とした使者の派遣があり、倭国からも推古朝の草壁吉士磐金、皇極朝の草壁吉士真跡、高向博士黒麻呂などの新羅への派遣があったことが記録されている[2]。

特に遣新羅使が頻繁に任命されるようになったのは、唐の進出により百済が滅亡し、白村江の戦いにより唐との関係が緊張してからである。このような状況の下、日本と唐は遣唐使を行うなどで関係改善しつつあったが、唐が日本を征伐するという風聞があったこと、668年に高句麗の宝蔵王が唐に投降(麗唐戦争)したことで唐からの圧力が強まったことに危機感を覚えた新羅との利害が一致したことなどから共同で対抗しようとする動きの一環として頻繁な交流が始まったと考えられている。新羅が朝貢形式を取って使者を派遣してきたこと、白村江の戦いにおいて日本と新羅との直接的な戦闘がほとんどなかったことなどから、日本側も受け入れやすかったと推定されており、日本側の目的としては、先進技術の収集のほかに、海外情勢の調査もあったと考えられている。」

日本からの遣新羅使の回数は28回(668天智天皇~836仁明天皇)。非公式もいれると33回。
新羅使は当面の752年新羅使についてはその回数が明確でない。理由はご存知の通り白村江敗北で百済が滅ぼされたことが大きい。しかし「金および、東南アジア・インド・アラビア産の香料や薬物が多数含まれていることが注目される。前者は大仏塗金用の金の調達に苦労した日本が、冷却関係を度外視して新羅との交易に努めた現実をよく示しているし、後者からは新羅の貿易が中継貿易としての性格をもち、市場としての日本に大きな魅力があったことがわかる。

日本が新羅を蔑視したことは否定しようもないが、その後江戸時代になっても李王朝の朝鮮通信使の十数回の訪問や、大阪四天王寺のワッソなどでも、家康が完全な鎖国をしておらず、隣国を重視したことが偲ばれる。

新しい歴史は、このような中国が蛮族とした国家との長いつきあいを肯定し、それがこれまでの皇国史観による日本への「朝貢」という視点ではなく、文化の影響という肯定的な史観で論じられなければならない。すでに韓国史学者の中にも、こうした日本との影響しあった部分を認めている発言が増えている。

正倉院に保管される遺物の多くが、中国よりもむしろ渤海・新羅からのものが多い。
そういう視点で次回は高松塚古墳の壁画を論じたい。



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