再掲載
 

 
 
 
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 諏訪大社神長官守矢記念館耳裂け鹿
 
 
 「中国では「四つ足は机と椅子以外、二つ足は親以外は全て食べる」と聞いた。
最近テレビのニュースで、「中国では人間の肉を食べた人は死刑になる法律が出来た」といっていた。中国のある地方では人間の胎児や赤ちゃんを食べる村が現存するという話は前から聞いて知っていたが、知人がインターネットで証拠写真を見つけたからと写真を見せられた、しばらく言葉がでなかった。
 中国の女帝で美食家の楊貴妃は3才児の人間の肉がうまい!と言ったという。
世界三大珍味の果物ドリアンは三歳児の子供の味と似ている!
と何かの本で読んだ記憶がある、ドリアンを食すたびにこの事を思い出す。
 私たち先進国の人間は後進国の人間を残酷だという、私たちも後進国を経て先進国になったのに古くて都合の悪いことには目をそむけて忘れてしまう。」
http://mamorunagai.ninpou.jp/odoroki2.htm
 

 


中国人でなくても、狩猟民ならば、往古は鹿やイノシシを捕らえてみたら胎児を孕んだメスだったなんてことは頻繁にあったのではないかと思う。もちろん最初から孕んだ母動物は生態系の維持のため、つまり食物保護のために、捕獲はさけたかも知れないが、逆に走りが遅いから捕獲しやすく、わりに捕まえていたのこもしれない。
すると、捕獲後、さばくときに腹から胎児や嬰児が出てくる場合もある。そもそも最初からそれが目当ての狩猟も考えてよいかも知れない。というのも、韓国などの肉食文化圏では若牛、胎児、胎盤は美食とされるし、どうやらそれはうまいらしいのだから。

万一、期せずして胎児を狩猟民が見たとして、その形状が人間の胎児そっくりであることを見て、なにがしかの感慨は持たなかっただろうかと、言いたいことはこれである。
 
狩猟する男性が、妻の自然出産や流産堕胎時に、わが水子の姿を見ている確立は非常に高い。だからこそ勾玉形は全世界で霊魂の形状として認知されてきたはずである。違いましょうか?

その知っている目が、捕獲した鹿・・・古代の狩猟動物では数値上、鹿(オオツノヘラジカ・トナカイ・ムースなど含む)が、どの世界でも最も多く捕獲されている・・・の胎児・嬰児を見る確率もけっこう高くなるだろう。その時、彼は何を思うだろう?とご一緒に考えてみてください。
 

 
それが初見ならまずは驚くだろう。
そして言い伝えられる。
鹿が人間の子を孕んでいる・・・・。などと。
広まる。
鹿は人間の胎児(人間と同じ姿の子供)を生む生き物だ!
すべての狩猟・漁獲動物の中で、こういうことが起こりうる動物・魚類となるとやはり鹿類・やぎなどが一番確率が高いのではなかろうか?だから鹿は聖獣とされる世界が多いのではないか・・・とふと思った次第である。
 
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昨日のニューギニア記事に、勾玉型や目や耳がよく呪の絵柄になると書いた。耳については特にコメントはせずにおいたが、耳の形状はまず勾玉や胎児の形によく似ている。背中を丸めた胎児のようなその半円弧の形状で、下部の耳たぶのところがヒレのようふらふら・くにゅっとする器官は、ものを聞き取る機能があるわけだが、「人々の声を聞き取る」という言葉はそのまま為政者王のあるべき姿に通じている気がする。そのことは例として、10人の言葉を一ぺんに聞き分けたという聖徳太子が豊総耳(とよとみみ)と呼ばれたことや、沖縄の琉球王の特別なウタキであった「聞得大君(きこえおおきみ)」の名前や、投馬国の官の名前がミミであったことや、あるいは「聞く物部」集団などから納得してもらえそうに思うがいかに?
 
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このように「ミミ」は古代では、目や胎児同様、かなり重要な呪の絵柄や象徴になりえたと筆者は考えたい。
大阪の摂津三島という古墳地帯に「耳原」地名があって、そこには三島溝咋耳や、彼に関わる枝族として和泉の陶津耳といったやはり「耳」の氏族がいたことは知られている。そして『日本書紀』は耳原の地名由来として、鹿の耳から百舌が飛び出した話をわざわざ書き込んでいる。この説話の意味は以前ここでも解読したつもりであるが、耳は墨壷として利用されたとか、百舌は百舌鳥土師氏のことかとかは言及しておいた。
 
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鹿が聖なる「おこう使い」となった理由には、多くの理由が考えられるが、
 
1 食肉として 
2 なめし皮として紐や衣服に
3 皮革が武具として
4 神への生贄として
5 耳が建築用具の墨壷として
6 海を渡る精霊として
7 「しか」=志賀=海そのものの象徴として
 
主として海人族と狩猟民・・・つまり日本神話の中心を織り成す海の民・山の民の聖なる獣としての鹿、という重要な位置に過去置かれ続けたことは否めない。神の使いはやがて神そのものの変化(へんげ)した姿ともなった。それはカラスがやはり、太陽の使者から太陽そのものを示す象徴となったことと矛盾しない。
その聖獣の胎内から人間そっくりな魂の形状の子供が生まれ出る・・・。
そこに古代人の畏怖と驚愕を見るのである。

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耳垂・鼻垂とか耳鼻のつくツチグモが記紀には出てくるが、「たれ」は「たらし」で酋長なのであり、大王が「たらしなんたらひこ」なのもそれが日本全体の酋長という意味合いなので耳垂・鼻垂も地域的酋長だったわけで、その「たれ」とは耳や鼻からわっかを垂らしていたからだろう。つまり耳飾や鼻飾(あまり聞かないが)が酋長・首長・王族のステータスだったからだろうと思うのであるが、耳飾は世界中の海岸部から出てくるわけで、それを「けつ状耳飾」と呼ぶことは好事家ならよくご存知である。けつじょうみみかざり[けつじやう―] 7 【▼状耳飾り】http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/106001500000/
 
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Cの形の、一部だけ輪が欠けていて、それが形が古代中国の玉器の「けつ」に似ているのでいうのだが、そこに耳たぶをはさむいわゆるイアリングである。玉壁や貴石や金銅や純金などで作られていてあまり腐食しないので、世界中でごろごろ出てくる。もちろん日本でも日本海側を中心に出てくるから、倭人・安曇・白水郎(あま)などが装着したのであろう。
 
 
それの立派なものはやはり首長・リーダー・かんなぎなどのシンボライズな威信材となったであろう。
つまり「耳」という官職の人もこれをつけたことだろうと思える。
ということは投馬国は海人の国だったことになる。
たくさんつければ重さで耳たぶは当然長く延びる。
まさに「みみたれ」である。
 
ネイティヴの中に、今も首長族のような首にリングをはめていったり、耳にでっかい重いリングをやまほどたらすことをステータスとする部族がある。つまりそういうことである。耳はだから重要な威信材装着部位であって、目や胎児やカゴメ同様魔よけなのだ。その形状の勾玉を天皇の三種の神器のひとつにするのが日本なのである。剣・勾玉・鏡である。剣は男性シンボル、鏡は太陽・母つまり女性シンボルで、そこから生まれた霊魂が八つの勾玉つまり胎児である。なぜ八つかと言えば「やさかにの」で、八人の子供・・・つまり八王子である。八王子とはアマテラスとスサノヲのウケイによって生まれた子供の数である。陰陽道の聖数である。八方である。

これが12人ならミャオ族の言い伝える12の枝族になったりする。たまたまかどうかユダヤでも12支族が分かれたと聞く。

だからスサノヲは男根・剣であり、アマテラスは太陽・子宮・鏡である。
 
出雲神話で日本海を海を照らして寄り来た神があった。石見や出雲の漁師は大社にささげるセグロウミヘビは、泳ぐとき背中が鏡のように光るのだと千家宮司に話、宮司はそれを記録している(谷川健一)。
蛇は手足なく動く、尋常ならぬ、この世のものでないモノであるがゆえに贄をなる。かつ、同時にそれは神の使者・神そのものとなったことは上記カラスや鹿と同様である。そうした自然のモノが、やがて器物になったのが三種の神器であろう。
そのモノどもを治めるのが大物主なのである。先の三島・泉州の陶津耳からはその大物主を祭る=祟らぬように鎮撫する=大三輪一族が出る。耳の中から祭祀者が出る。つまりそういうことである。耳原の鹿の耳から出た百舌鳥とはとりもなおさずそういうことになろうか。
 
パンには耳があるが、つまりへりのことで、古墳にもヘリはあってそこも耳ではなかろうか?
へりには環濠と造りだしがあり、そこで水の祭祀をした。あるいは方墳なら四至(しいし・四極)に出っ張りを持たせて四方で祭祀する。それで仏教などで四極を「しはつ」と呼び、要するに相撲の四色の「たぶさ」に相当する。「しはつ」というのはだいたい台形の山につけられるが、方墳や四隅突出方墳丘墓も台状である。
その上に二本線を引き「しきり」にすれば相撲儀式である。
 
古墳の場合、台状部分や円墳頂上には「一宇」つまり屋根のある祭祀小屋が建てられ、そこに祖霊が降りてくる。降りてくるときは天上に上った死者の霊魂に乗り移って、鳥によって運ばれてくる。それがそのムラの新生児に乗り移って黄泉ガエリは成就する。こうしてムラやクニはいやさかえ、永遠に存続する。そう信じられた。こんこんと湧く湧水のように、終わりなく、永遠を手にする。この永遠を手にすることこそわれわれ人類の至上の願望である。
 

 
 
すべてが無償の宇宙の下で展開される、永遠の繰事である。それが安定だった。
現代の経済社会も、弥生からの栽培農耕社会も、この三万年の営みを無視し、壊してきた。
だから現代人は破壊王なのだ。だからすべては有償になった。

有償の貨幣経済にすでに三種の神器は無用である。それは別のモノに変わらねばならない。
金(鏡の代わり)・核ミサイル(剣の代わり)・ヌイグルミ(子供の代わり)が現代の三種の神器である。すべてが無機物。生命を持たぬ破壊の象徴。卑弥呼ならこういう、この世界には私はいない。なぜなら毎日日食だからだ。
滅びへの加速度はぐんぐん増していく。
 
 
 

 
 
 
 
 
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 イッツKawakatuワールド最終版http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/