過去記事から転載して新たに展開。


東北縄文人の円ときずなの原理主義
日本人の信仰基盤には主として「野生の思考」と「定住の思考」の二面がある。
それは”縄文の思考”と”弥生の思考”とも言うことが出来る。
違う言葉言うと「精霊崇拝」と「祖霊崇拝」の違いである。


■縄文の思考・精霊崇拝の観念
難しい言葉を重ねるより図に示すほうがわかりやすい。



精霊信仰においては、

1 動物・魚類・爬虫類・鉱物・植物・人間・その他のすべての地球の事象は同等の価値観でとらえられる。

これを「円の発想」と武光誠は表現している。

2 上下関係、順位、不平等という観念がない

3 人は死ぬと一律、精霊の世界に招かれる

4 新生児は新しく生まれてきた人類すべての魂である→夭折幼児の遺体には精霊が宿り人々を守る。

5 すべての事象、事物、自分達が創作したすべての道具に霊魂が宿る

6 霊魂はあらゆる空間を自在に往来し、新生児には生命を与える

7 霊魂の集団が自然現象=神を起こす

8 まれびととは不特定多数の来訪者である

つまりこれらは原始多神教観念である。
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一方、祖霊信仰においては
1 すべての事物には差異があり

2 最上級になるものは神の加護があったことになり

3 私有財産・土地・水田こそが階層を表し

4 身分や生き物にはおのずから階位があり

5 人類は万物の最上段に居て

6 霊魂は再生し、新生児に宿り、夭折幼児は祖霊のよりしろで、まれびととは祖霊そのものである

これが弥生時代の墓制とまつりごと観念である。


縄文の思考である「円の発想」は環状集落に表現されている。
図のような円形の中に、家が輪になって建てられ、墓も円形に置かれる。そこには上下関係がない。
採集するすべての食料にも精霊は宿っており、その精霊に祈ってその中の必要な分の一部だけをちょうだいしている。鹿には鹿の、芋には芋の精霊がいて、それに食物をわけてもらっている。つまり生きているというより「生かされている」という着想である。

そこに争いごとがない。差別がない。一蓮托生。

弥生文化は「区分」からすべてが始まり、そこから差別と格差が生じ、富むものは貧しきものを養い、敵対者を作る。そのために常に自分達のテリトリーを護るために臨戦態勢。一蓮托生。

共通するのは「家」観念であり、現代のような「個」がない。


共通点と相違点がある。


そのいくつかは今でも西日本中央部とその他のすべての日本文化の相違、共通点として残存している。
東西で言われることが多いが、筆者はそうは思わない。近畿だけが弥生的で、あとはみな縄文的な部分が根強く残っている。近畿は特殊地帯である。

北部九州の西側で展開された甕棺文化はむしろ縄文的で、弥生的ではない。支石墓や方形周溝墓には格差が生まれている。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53631006.html



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◆東北人の「絆婚」の理屈を超えた縄文思想・情念の行動原理は即物的弥生思想の近畿人や実利的北部中国人にはまったく理解できない。ウエットで、流されているようにしか見えない。つまりそれは古代の神仙思想に似ていて、しかしもっと内向きな内向性であろうか。


東北人の行動性を、ドライで唯物的な学者が見るとこうなってしまう。
「今、(東日本で)産まれてきている子ども達は、見た目は普通だが、遺伝子がやられているから、その次の子どもに異常が出る」と言っています。」
http://blogs.yahoo.co.jp/yokohansen/29284372.html

きずな婚も、それからチェルノブイリやほかの事故現場ではありえなかった「早期復興と帰還への強い行動」は一般人から見れば、ありえない理不尽、不条理な行動だとしか見えないのだが、日本人が不思議人種なのか、東北人が異常人種なのか、それとも東日本人の縄文的行動原理なのか・・・。

帰れば間違いなく汚染され
住めば孫子は絶対放射線で発ガンし
助けに行ってもそれだけで汚染され
もう100年戻れないことは明白なのに
汚染されまくっている、西日本から北極海、オホーツクにまで及ぶ広範囲な汚染された海で、相変わらず生活を立て直し、魚をとって、市場に送り、言霊にとりつかれたとしか思われないことに希望を見出さねば、人は生きていけないことが、あまりにも縄文人の生活を想像させるのが、むしろ身につまされる。





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昨夜、「不思議発見」でミャンマーが出ていたが、あそこも、やはりウエットで、少数多様な民族が集合して暮らしている。おりあいながら共同国家をくりひろげ、このあいだまで「卑弥呼」だった女性が狗奴国によって軟禁されてきたような、弥生時代国家であると見えた。


実に、いまだに世界も日本も、古代を抱え込んでいることよと、気が遠くなるなるほどの切なき思い視線はるかに遠くなる。

くしくも、卑弥呼も金環食か皆既日蝕かで、王殺しの目にあっている。

昨夜の日食で、もしやまだどこかの部族で王殺しと交代劇がおきたとしても、不思議でもない気がしてくるから不思議である。

東北人の切望を批判できるほどの確固たる正しい方向性を、ぼくたちは誰一人彼らに強要できないし、まして「それでは数十年後にガン死亡率が急上昇するじゃないか」などといいつのって、石以て彼らを打つことなどできようはずもない。

この世界、円の世界は自由の空間だから。